スキップしてメイン コンテンツに移動

正7-2-a『第七一顆明珠』第二段a 正法眼蔵私訳〔すべての世界は一個の光り輝く宝珠である〕

〔『正法眼蔵』原文〕

つひにみちをえてのち、人にしめすにいはく、

「尽十方世界是ゼ一箇明珠イッカミョウジュ」。


ときに僧問トフ

「承和尚有言、尽十方世界是一顆明珠。学人如何シュオ会得

《承るに和尚言へること有り、尽十方世界は是れ一顆の明珠と。

学人如何イカンが会得エトクせん》」。


師曰イハク、「尽十方世界是一顆明珠、用会作麼ヨウエソモ

《尽十方世界は是れ一顆の明珠、会を用ゐて作麼ソモ」。


師、「来日却問其僧《師、来日却つて其の僧に問ふ》

「尽十方世界是一顆明珠、汝作麼生会

《尽十方世界は是れ一顆の明珠、汝作麼生ソモサンか会せる》」。


僧曰、「尽十方世界是一顆明珠、用会作麼ヨウエソモ

《尽十方世界は是れ一顆の明珠、会を用ゐて作麼)》」。


師曰、「知、汝向黒山鬼窟裏作活計

《知りぬ、汝黒山鬼窟裏に向つて活計カッケイを作すことを》」。



〔『正法眼蔵』私訳〕

ついに道を得た後、人に法を説くにあたって言った、

「すべての世界は一つの光り輝く宝珠である」と。

(つひにみちをえてのち、人にしめすにいはく、「尽十方世界是一箇明珠」。)


その時、僧が尋ねた、

「和尚さんは、あらゆる世界は一個の明珠である」

と仰っているとお聞きしましたが、

学人(仏道修行者)はどのように理解したらよいでしょうか」と。

(ときに僧問、「承るに和尚言へること有り、『尽十方世界は是れ一顆の明珠』。

学人如何が会得せん。) 


玄砂は僧に言った、

「すべての世界は一つの明珠である、

ということを理解してどうするのか」と。

師曰、尽十方世界は是れ一顆の明珠、会を用ゐて作麼」。)

〔すでにすべての世界は一つの明珠だと言っているではないか。

それなのに理解するとかしないとか一体どこを見ているのだ。〕 


玄砂は、次の日逆にその僧に尋ねた、

「すべての世界は一つの明珠である、

それをお前はどのように理解したか」と。

師、来日却つて其の僧に問ふ

尽十方世界は是れ一顆の明珠、汝作麼生か会せる」。)


僧は、玄砂の口真似をして言った、「あらゆる世界は一個の明珠です、それを理解してどうするのですか」と。

(僧曰、尽十方世界は是れ一顆の明珠、会を用ゐて作麼)」。)


玄砂は言った、「分かったぞ、お前は黒山の鬼の巣窟に向かって(分別妄想の世界を対象にして)生活しているな」と。

(師曰く、「知りぬ、汝黒山鬼窟裏に向つて活計を作すことを」。)

〔自己を含めたすべての世界は一つの明珠であることを示したにもかかわらず、それを玄砂の口真似をして済まそうとした学人を戒められたのである。と同時に、道元禅師はまたこの黒山鬼窟も一つの明珠だと言われているのである。〕


                         合掌


聞書抄私訳〔すべての世界は一個の光り輝く宝珠である〕


ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                       


     ↓               ↓

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 禅・坐禅へ   にほんブログ村PVアクセスランキング にほんブログ村   

コメント

このブログの人気の投稿

むしろ逆に悟りを借りるのかどうか 『第十大悟』10-4-2a

〔『正法眼蔵』原文〕  「還仮悟否 ゲンケゴヒ 《 還 カエ って悟を仮るや否や 》」。 この道をしづかに参究して、 胸襟 キョウキン にも換却すべし、 頂𩕳 チョウネイ にも換却すべし 。  近日大宋国禿子 トクス 等いはく、「悟道是本期 ゼホンゴ 《悟道是れ本期なり》 」。 かくのごとくいひていたづらに待悟す。 しかあれども、 仏祖の光明 にてらされざるがごとし。 たゞ真善知識に参取すべきを、懶惰 ランダ にして蹉過 サカ するなり。 古仏の出世にも度脱せざりぬべし。 〔『正法眼蔵』私訳〕   「 むしろ逆に悟りを借りるのかどうか 」。 この言葉を静かに親しく究め尽くして、 心の中のものとも取り換えなさい、 頭の中のものとも取り換えなさい 。 (「還仮悟否」。この道しづかに参究して、胸襟にも換却すべし、 頂𩕳 にも換却すべし。)   近頃、大宋国では、頭を剃って坊さんの格好をした連中が、 「仏道修行は道を悟ることが本来の目的だ」と言っている。 このように言って、無駄に悟りが来るのを待っている。 (近日大宋国禿子等いはく、悟道是れ本期なり。かくのごとくいひていたづらに待悟す。) そうであるけれども、 仏陀や祖師と同じような 自己の光明 に照らされないようなものである。 (しかあれども、仏祖の光明にてらされざるがごとし。) ただ真の善知識 (人を正しく導く師) について学ぶべきであるのに、 時間を無駄に過ごして 大道(自己の光明に照らされる在り様) を踏み間違えているのである。 (たゞ真善知識に参取すべきを、懶惰にして蹉過するなり。) たとえどんな仏の出生に出会っても、解脱しないであろう 。 (古仏の出世にも度脱せざりぬべし。) むしろ逆に悟りを借りるのかどうか 『第十大悟』10-4-2b                          合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                               ↓               ↓       にほんブログ村

坐禅は身心の今の様子のままにただ親しくいるだけである『第十一坐禅儀』11-1-1a

正法眼蔵第十一 坐禅儀 ザゼンギ 〔『正法眼蔵』原文〕   参禅は坐禅なり 。  坐禅は静処 ジョウショ よろし。坐蓐 ザニク あつくしくべし。 風烟 フウエン をいらしむる事なかれ、雨露 ウロ をもらしむることなかれ、 容身 ヨウシン の地を護持すべし。 かつて金剛 コンゴウ のうへに坐し、盤石 バンジャク のうへに坐する蹤跡 ショウセキ あり、 かれらみな草をあつくしきて坐せしなり。 坐処あきらかなるべし、昼夜くらからざれ。 冬暖夏涼 トウダンカリョウ をその術とせり。  諸縁を放捨し、万事 バンジ を休息すべし。 善也不思量 ゼンヤフシリョウ なり、悪也不思量なり。 心意識にあらず、念想観にあらず。 作仏 サブツ を図 ズ する事なかれ 、坐臥 ザガ を脱落すべし。  飲食 オンジキ を節量すべし、光陰を護惜 ゴシャク すべし。 頭燃 ズネン をはらふがごとく坐禅をこのむべし。 黄梅山 オウバイサン の五祖、ことなるいとなみなし、唯務 ユイム 坐禅のみなり。  坐禅のとき、袈裟 ケサ をかくべし、蒲団 フトン をしくべし。 蒲団は全跏 ゼンカ にしくにはあらず、跏趺 カフ のなかばよりはうしろにしくなり。 しかあれば、累足 ルイソク のしたは坐蓐 ザニク にあたれり、 脊骨 セキコツ のしたは蒲団にてあるなり。 これ仏々祖々の坐禅のとき坐する法なり 。 〔『正法眼蔵』私訳〕 正しい坐禅の仕方 (坐禅儀)   禅 (自己の真相:今の様子) に参ずる (親密にいる) のは、 公案を拈ることではなく 坐禅することである 。 (参禅は坐禅なり。)  坐禅は静かな処が適切である。 (坐禅は静処 ジョウショ よろし。) 座布団を厚く敷きなさい。 (坐蓐 ザニク あつくしくべし。) 風や霞が入らないようにし、雨や露が漏れてこないようにして、 身を容 イ れる場所を清潔に保ちなさい。 (風烟をいらしむる事なかれ、雨露をもらしむることなかれ、 容身の地を護持すべし。) かつて金剛座 (金剛石でできた坐処) の上に坐したり、 或いは大きい岩の上に坐した事跡があるが、 彼らはみな草を厚く敷いて坐ったのである。 (かつて金剛 コンゴウ のうへに坐し、盤石 バンジャク のうへに坐する蹤跡 ショウセキ あり、 かれらみな草をあつくしき...

あなたは坐禅をして何を図っているのか『第十二坐禅箴』12-2-1a

〔『正法眼蔵』原文〕    江西大寂 コウゼイダイジャク 禅師、ちなみに南嶽大慧禅師に参学するに、 密受心印よりこのかた、つねに坐禅す。  南嶽あるとき大寂のところにゆきてとふ、 「大徳、坐禅図箇什麼 ズコシモ 」。  この問、しづかに功夫参学すべし。 そのゆゑは、坐禅より向上にあるべき図 ヅ のあるか、坐禅より格外に図すべき道 ドウ のいまだしきか、すべて図すべからざるか。 当時坐禅せるに、いかなる図か現成すると問著 モンヂャク するか。 審細に功夫すべし。 〔『正法眼蔵』私訳〕 江西の大寂馬祖道一禅師が、縁あって南嶽大慧懐譲禅師に参じて学んだとき、仏心印 (仏の悟りの内容 ) を親しく厳しく正しく受けて (仏法の在り様、坐禅の在り様がツーツーになって) 以来、常に坐禅した。 (江西大寂禅師、ちなみに南嶽大慧禅師に参学するに、密受心印よりこのかた、つねに坐禅す。) 《この密は、隠密の密ではなく、親しく厳しく正しいという意味合いである。》 南嶽がある時馬祖の所に行って尋ねた、 「あなたは坐禅をして何を図っているのか」。 (南嶽あるとき大寂のところにゆきてとふ、「大徳、坐禅図箇什麼。」) この問いは、静かに工夫し深く学ばなければいけない。 (この問、しづかに功夫参究すべし。) と言うのは、坐禅よりもっと上にあるべき図 (様子) があるのか、坐禅より外に図るべき道 (在り様) がまだその時期でないのか、全く図ることがないのか。 (そのゆゑは、坐禅より向上にあるべき図のあるか、 坐禅より格外に図すべき道のいまだしきか、すべて図すべからざるか。) 当に坐禅している時に、どんな図 (様子) が現れているのかと問うたのか、詳細に工夫すべきである。 (当時坐禅せるに、いかなる図か現成すると問著するか。審細に功夫すべし。) 〔「坐禅図箇什麼」 (坐禅の図は箇の什麼なり) とは、箇の什麼 (この身心の今の様子) が坐禅の図 (様子) であるということである。〕 あなたは坐禅をして何を図っているのか『第十二坐禅箴』12-2-1b                         合掌 ンキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                               ↓               ↓       にほん...