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正7-1-2「第七 一顆明珠』第一段②聞書抄〔浮世の危うさを悟り、仏道の貴さを知った〕

 〔抄私訳〕

「裟婆シャバ世界大宋国、福州玄砂山ゲンシャザン院宗一シュウイツ大師、法諱ホウギ師備シビ、俗姓者シャなり。在家のそのかみ釣魚チョウギョを愛し、舟を南台江にうかべて、もろもろのつり人ビトにならひけり。不釣自上フチョウジジョウの金鱗キンリンを不待フタイにもありけん」とある。


玄砂の発心の初めが説かれており、文の通りである。

「不釣自上」とは古い言葉で、釣りについて引き出され、釣らないのに自ずから上がるというのである。これは即ち解脱の言葉である。


この言葉には、人を釣り、魚を釣り、釣りを釣るという意味合いがある。

全てが釣の道理であるからである。以下は文の通りである。


〔聞書私訳〕

/樵夫ショウフの生業からも祖師は出ており、六祖がそれである。

漁夫からも出ており、玄砂がそれである。


/「浮世のあやうきをさとり、仏道の高貴をしりぬ」と言う、

この言葉は、世間で聞き慣れている。


「仏道」と「浮世」の能所ノウジョ(働きかける側と働きかけられる側)を立て、

「浮世」を捨て「仏道」に入ると思われるが、

どうして立ち戻って能所があろうか。


「仏道の高貴」を知る時は、「浮世のあやうき」ことはないのである。

「浮世」を「浮世」と知れば、そのまま全部「仏道の高貴」である時は

能所はないのである。


/「不釣自上の金鱗を不待にもありけん」とは、この言葉の下には、

人を釣り、魚を釣り、釣りを釣りという意味合いがあるのである。


「不釣自上」ということは、玄砂がすっかり祖師となったので、

ひょっとして漁夫であった昔も、求道心があって人を釣る心も

あったのであろうという義もあるであろう。


大体、仏法では相対する義がないから、釣れば魚が上がるのだという

義もなく、釣らなくても上がる義があるのである。


諸法を実相と言うのも、森羅万象を無理して実相と説くのではなく、

三界を唯心と言うのも、ただ三界は心だと言うのではないのである。


実相は実相であり、唯心は唯心であると当体を究めつくせば、

釣りによって上がるというのは、なお能所彼此の差別があり、

染汚ゼンナの法(分別心で汚されたもの)と受け取られるから、

「不釣自上」(釣らないのに自ずから上がる)という言葉が出てくるのである。


結局、「不釣自上」も「金鱗」も「不待」も一つであり、

「一顆明珠」なのである。



                         合掌



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