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正6-30-2『第六行仏威儀』第三十段②〔『正法眼蔵』私訳〕〔まさに思えり猿白しと、さらにあり猿の黒き〕

 〔聞書私訳〕

/「圜悟禅師云く、『まさに思えり猿白しと、さらにあり猿の黒き』」

とある。

黒白の違いはあるけれど、ただ猿であるから、出るのも没するのも、

同じものの上で使うのである。

つまり、行仏(たった今を行ずる仏〉よりほかの仏がない道理なのである。



〔『正法眼蔵』私訳〕

 圜悟が二人の言葉を評して、

「雪峰が衆生の煩悩妄想を奪う大泥棒の白い猿のようなものだと思ったら、

もっと上手の大泥棒の黒い猿のような玄砂が出てきて、

互いに入れ替わってやりとりするが、そのありさまは神出鬼没である」

と言うのである。

(圜悟いはくの猴白と将謂する、

さらに猴黒をさへざる互換の投機、それ神出鬼沒なり。)

〔これは「転大法輪」と「立地聴」を取替えてみせただけで、

二人の言うことは別ものではないと言われるのである。〕


これは雪峰が玄砂と同じであっても、玄砂と同じでない道理もあるけれども、火焔(たった今)が諸仏(たった今に住む人)なのか、

諸仏を火焔とするのかという道理もあるのである。

(これは玄砂と同条出すれども、玄砂に同条入せざる一路もあるべしといへども、

火焔の諸仏なるか、諸仏を火焔とせるか。)

〔これは師弟の同にして異、異にして同なる道理があることを

言われるのである。〕


師弟が互いに入れ替わる趣があり、

玄砂は説を出し聴を出しと神出鬼没であるけれども、

雪峰の境界は、決して黒白の間に滞っていないのである。

(黒白互換のこころ、玄砂の神鬼に出没すといへども、

雪峰の声色、いまだ黒白の際にのこらず。)

しかもこのようであるけれども、

玄砂に言い得たところがあり、言い得ないところもある。

雪峰に言い得たところがあり、

言い得ないところもあることを知るべきである。

(しかもかくのごとくなりといへども、玄砂に道是あり、道不是あり。

雪峰に道拈あり、道放あることをしるべし。)

〔雪峰は「転法輪」は言ったが、聴き手のことは言っておらず、

玄砂は「仏説法」は言ったが、法説仏は言っていないのである。〕


今圜悟は少しも玄砂に同調せず、雪峰にも同調しない言葉があり、

それは「烈しい火焔が天に満ちるとは仏が法を説くことであり、

満天が烈しい火焔であるとは法が仏を説くことなのである」

という言葉である。

(いま圜悟さらに玄砂に同ぜず、雪峰に同ぜざる道あり、

いはゆる烈焔亙天はほとけ法をとくなり、亙天烈焔は法ほとけをとくなり。)

〔この言葉は、雪峰と玄砂の二人が言い得ていないところを

言い抜いているのである。〕


この言葉は、本当に後進にとっての光明である。

(この道は、真箇これ晩進の光明なり。)



                             合掌


 

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