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正6-29-3『第六行仏威儀』第二十九段③〔火焔(たった今)の丸出しで、鉄の樹に法華(たった今の華)の花が爛漫と開いて世界に香る〕

〔『正法眼蔵』原文〕 

火焔は決定ケツジョウして三世諸仏のために説法す。


赤心片々として鉄樹花開世界香《鉄樹、花開いて世界香カンばし》なるなり。


且道シャドウすらくは、火焔の説法を立地聴しもてゆくに、

畢竟ヒッキョウじて現成箇什麼ゲンジョウコシモ


いはゆるは智勝于《智、師に勝る》なるべし、

智等于師《智、師に等し》なるべし。


さらに師資の閫奥コンオウに参究して三世諸仏なるなり。



〔抄私訳〕

「火焔は決定して三世諸仏のために説法す。赤心片々として鉄樹花開世界香《鉄樹、花開いて世界香ばし》なるなり」とある。


これらの道理であるから、「火焔は決定して三世諸仏のために説法」するのである。「赤心片々」は例の言葉であり、火焔のまる出しで果てしない意である。「鉄樹花開世界香」も同じ意である。これらは古い言葉であり、ただどこまでも果てしない意味である。「香ばし」とは、「花開」の言葉に付くのである。


「且道すらくは、火焔の説法を立地聴しもてゆくに、畢竟じて現成箇什麼」とある。


これは、「火焔の説法を立地聴」すると、どのような道理が現成するか、という意である。


「いはゆるは、智勝于師なるべし、智等于師なるべし。さらに師資のコンオウに参究して三世諸仏なるなり」とある。


「智勝于師」「智等于師」の道理は、言うならば雪峰と玄砂の間柄と、「火焔」と「三世諸仏」の間柄が、どちらも違わないということである。

「勝」「等」の言葉は、ただ同じ意である。


「勝」「等」の「勝」は勝劣の勝ではなく、また「等」は相対の等ではない。この道理を参究するから「三世諸仏なるなり」と決着されるのである。



〔聞書私訳〕

/「鉄樹花開世界香」とは、鉄の樹が、どうしてか花が咲き、開き、よい香りがするだろうけれども、「三世諸仏のために説法」するのである。「赤心片々」と言うからには、「鉄樹の花が開き」よい香りがするのである。ことごとく日頃の考えとは違うが、この違う所が、「鉄樹花開」なのである。


/「智勝于師なり、智等于師なり」とは、「諸仏」と「火焔」が師弟に対応することを言うのであり、これらは等しいのである。



〔『正法眼蔵』私訳〕

火焔(たった今)は必ず三世諸仏のために説法するのである。

(火焔は決定して三世諸仏のために説法す。)

〔火焔ばかりではなくあらゆるものが法(たった今)を説き抜いている。〕


火焔(たった今)の丸出しで、鉄の樹に法華(たった今の華)の花が

爛漫と開いて世界に香るのである。

(赤心片片として鉄樹、花開いて世界香ばしなるなり。)


試みに言うならば、

火焔の説法を地に立って聴いていると、結局どうなるか。

(且道すらくは、火焔の説法を立地聴しもてゆくに、畢竟じて現成箇什麼。)


一般に言われているのは、

智が師よりも勝れていれば、智が師に等しいということである。

(いはゆるは智、師に勝るなるべし、智、師に等しなるべし。)



さらに師弟の奥深い所に参じ究めた者が、

三世諸仏(たった今にいる人)なのである。

(さらに師資の奥に参究して三世諸仏なるなり。)




                             合掌


 

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