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正6-28-1『第六行仏威儀』第二十八段①〔玄砂は、「火焔が三世の諸仏のために説法すると、三世の諸仏は地に立って聴く」と言う〕

 〔『正法眼蔵』原文〕

 玄砂の道ドウに、「火焔カエン三世諸仏説法、三世諸仏立地聴リッチチョウ」といふ、


これは火焔たとひ「為三世諸仏説法」すとも、

いまだ転法輪すといはず、又三世諸仏の法輪を転ずといはず。


三世諸仏は立地聴すとも、

三世諸仏の法輪、いかでか火焔これを転ずることあらん。


為三世諸仏説法する火焔、又転大法輪すやいなや。


玄砂もいまだいはず、転法輪はこのときなりと。


転法輪なしといはず。



〔抄私訳〕

「玄砂の道に、「火焔為三世諸仏説法、三世諸仏立地聴」といふ」(以下略)とある。

玄砂は、「火焔」(たった今)の「説法」を「三世諸仏は地に立って聴く」と言っている。確かに、火焔が三世諸仏の為に説法しても、まだ法輪を転じるとは言わない。言わないからといって、この理が欠けているのではないが、ただ、雪峰は雪峰の言葉として動かさず、玄砂は玄砂の言葉を変えずに置くという、しばらくの義である。始めから終わりまで、まったく言葉も考えも矛盾する義ではないのである。


「三世諸仏の法輪、いかでか火焔これを転ずることあらん」とは、「三世諸仏の法輪」を「三世諸仏の法輪」として置き、「三世諸仏の法輪」を「火焔」が「転ずる」ということを、しばらく言うまいという意味合いである。


つまるところ、「火焔」と「三世諸仏」と「説法」とはそれぞれ別であるように思われ、「火焔裏」で「三世諸仏」が「説法」されるように思われるところを、いずれも別々にすべきものではない道理を、表そうとするほどの意味合いである。


「為三世諸仏説法する火焔、又転大法輪すやいなや」とある。

今の「三世諸仏の為に説法する火焔、又転大法輪すやいなや」と受けられるのは、「火焔」が「説法」すると玄砂が言われる所を、動かさずないでおいて、「転大法輪」という言葉を雪峰の言葉にいわせておこうという道理の一筋である。


また、「火焔」が「又転大法輪」である道理もあるので、「又転大法輪すやいなや」と受けられるのである。落ち着く所はただ同じことである。今の文面だけは、まずこのような考えを見失わないで書かれていると心得るべきである。結局、違わないのである。


「玄砂もいまだいはず、転法輪はこのときなりと。転法輪なしといはず」とある。

これは前に言ったように、雪峰は「転大法輪」と言い、玄砂は「説法」と言う時に、「転法輪」の言葉を雪峰に持たせ、「説法」の言葉を玄砂に負わせるという義である。そうであるから、たしかに玄砂の「転法輪はこのときなり」とも、また「転法輪なし」とも言わない所をこのように釈されるのである。



〔『正法眼蔵』〕私訳〕

 玄砂は、「火焔が三世の諸仏のために法を説くと、

三世の諸仏は地に立って聴く」と言う。

(玄砂の道に、火焔為三世諸仏説法、三世諸仏立地聴といふ、)


これは火焔(たった今)

たとえ三世の諸仏(たった今に住む人)のために法(たった今)を説いても、

まだ転法輪すると言わず、また三世の諸仏が法輪を転ずるとも言わない。

(これは火焔たとひ為三世諸仏説法すとも、

いまだ転法輪すといはず、また三世諸仏の法輪を転ずといはず。)


三世の諸仏が地に立って聴くといっても、

三世の諸仏の法輪を、どうして火焔が転ずることがあろうか。

(三世諸仏は立地聴すとも、三世諸仏の法輪、いかでか火焔これを転ずることあらん。)


三世の諸仏のために法を説く火焔が、また大法輪を転ずるかどうか。

(為三世諸仏説法する火焔、又転大法輪すやいなや。)


玄砂もまだ、転法輪はこの時であると言わない。

(玄砂もいまだいはず、転法輪はこのときなりと。)


また転法輪はないとも言わない。

(転法輪なしといはず。)



                         合掌

                               


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