スキップしてメイン コンテンツに移動

正6-26-2『第六行仏威儀』第二十六段②〔法(たった今の在り様)を転ずる処に、必ずしも法を聴くことがあるのかないのかを論ずるに及んでいない〕

 〔『正法眼蔵』原文〕

雪峰の道、まさしく転法を道取すれども、

転法の処在かならずしも聴法不聴を論ずるにあらず。


しかあれば、転法にかならず聴法あるべしときこえず。


又、「三世諸仏、為火焔説法」といはず、「三世諸仏、為三世諸仏、転大法輪と」いはず、「火焔為火焔、転大法輪」といはざる宗旨シュウシあるべし。



〔抄私訳〕

「雪峰の道、まさしく転法を道取すれども、転法の処在かならずしも聴法不聴法を論ずるにあらず。しかあれば、転法にかならず聴法あるべしときこえず。」とある。


これは確かに、雪峰の言葉ではただ三世諸仏が火焔の中で説法するとだけ言い、「聴法不聴法を論ずるに」及ばないから、このように言うのである。だからといって、雪峰の言葉に「聴法不聴法」の言葉がないからといって、決して正しくないと言うのではないのである。


確かに、三世諸仏の説法のすがたには法を聴く人がまったくないから、「聴法不聴法を論ずるにあらず」と言うのである。先ず「雪峰の道」の一筋はこのように心得ておくべきである。「転法」の道理は、必ずしも法を聴く人がいなければならないと言うのではないのである。


「又、三世諸仏、為火焔説法といはず、三世諸仏、為三世諸仏、転大法輪といはず、火焔為火焔、転大法輪といはざる宗旨あるべし。」とある。


これは、「いはず、いはず」は例の道元禅師が替わって雪峰の言葉にない所を、「いはず」と述べられるのである。これは雪峰の「三世諸仏は火焔裏に在って大法輪を転ず」という言葉の理の通じる所を重ねて述べられるのである。決して雪峰がこの道理を知らず、この言葉にこの道理が不足しているというのではないのである。少なくとも雪峰の言葉が甚だ深く解脱している道理を受けてこのように言われるのだと心得るべきである。


また、決着をつける言葉に「いはざる宗旨あるべし」とある。雪峰にこの道理がなければ、ただ言わず知らずといって収まるところを、「いはざる宗旨あるべし」と言うので、雪峰の言葉にこの道理があるということが知られるのである。


〔聞書私訳〕

/「行仏」(たった今を行ずる人)は一切の諸仏(思いの中ではなく、たった今に住んでいる人)であり、「三世諸仏」であり、十方諸仏であり、三世でないものはないと、このように説き尽くすのである、とあるので、説き尽くすからには、何も残らないのである。


しばらく「いはざる宗旨」とあるけれど、実際は、言い残さない所を、「いはざる宗旨あるべし」と言うのである。



〔『正法眼蔵』私訳〕

雪峰の言葉は、確かに法を転ずることを言うけれど、

(たった今の在り様)を転ずる処に

必ずしも法を聴くことがあるのかないのかを論ずるに及んでいない。

(雪峰の道、まさしく転法を道取すれども、

転法の処在かならずしも聴法不聴を論ずるにあらず。)


だから、法を転ずるところに必ず法を聴くことがある

とは言わないのである。

(しかあれば、転法にかならず聴法あるべしときこえず。)


また、「三世の諸仏が火焔のために説法する」と言わず、「三世の諸仏が三世の諸仏のために大法輪を転ずる」と言わず、「火焔が火焔のために大法輪を転ずる」と言わない主旨があるのである。(又、三世諸仏、為火焔説法といはず、三世諸仏、為三世諸仏、転大法輪といはず、火焔為火焔、転大法輪といはざる宗旨あるべし。)



                          合掌

                               


ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                       


     ↓               ↓

コメント

このブログの人気の投稿

正9-3-4a『第九古仏心』第三段その4a〔牆壁瓦礫が人間に造らせたのか〕

〔『正法眼蔵』原文〕   しかあれば、「作麼生是牆壁瓦礫 ソモサンカコレショウヘキガリャク 」 と問取すべし、道取すべし。 答話せんには、「古仏心」と答取すべし。 かくのごとく保任してのちに、さらに参究すべし。 いはゆる牆壁はいかなるべきぞ。 なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段 ギョウダン をか具足せると、 審細に参究すべし。 造作 ゾウサ より牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか。 造作か、造作にあらざるか。 有情なりとやせん、無情なりや。 現前すや、不現前なりや。 かくのごとく功夫参学して、たとひ天上人間にもあれ、 此土他界の出現なりとも、古仏心は牆壁瓦礫なり、 さらに一塵の出頭して染汚 ゼンナ する、いまだあらざるなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕     そうであるから、「どのようなものが牆壁瓦礫か」 と問うべきであり、言うべきである。 (しかあれば、「作麼生是牆壁瓦礫」と問取すべし、道取すべし。)   答えるには、「古仏心」と答えるべきである。 (答話せんには、「古仏心」と答取すべし。) 〔これで古仏心と牆壁瓦礫が少しも違わないということが、 いよいよ明らかになるのである。〕 このように保ち続けたうえで、さらに参究すべきである。 (かくのごとく保任してのちに、さらに参究すべし。)   言うところの牆壁瓦礫とは、どのようなものか。 (いはゆる牆壁はいかなるべきぞ。)   何を牆壁瓦礫と言うのか、今どのような形をしているのかと、 詳しく細やかに参究すべきである。 (なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段をか具足せると、審細に参究すべし。) 人間が造ることで牆壁瓦礫を出現させたのか、 牆壁瓦礫が人間に造らせたのか。 (造作より牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか。) 人間が造るのか、人間が造るのではないのか。 (造作か、造作にあらざるか。) 有情だとするのか、無情だとするのか。 (有情なりとやせん、無情なりや。)   現前しているのか、現前していないのか。 (現前すや、不現前なりや。) このように参学して、たとえ天上界や人間界であっても、 現世や来世や出現しても、古仏心は牆壁瓦礫であり、 一つの塵が出現して、古仏心が牆壁瓦礫であるという事実を 染め汚すことは、いまだないのである。 (かくのごとく功夫参学して、たとひ天上人間にもあれ...

むしろ逆に悟りを借りるのかどうか 『第十大悟』10-4-2a

〔『正法眼蔵』原文〕  「還仮悟否 ゲンケゴヒ 《 還 カエ って悟を仮るや否や 》」。 この道をしづかに参究して、 胸襟 キョウキン にも換却すべし、 頂𩕳 チョウネイ にも換却すべし 。  近日大宋国禿子 トクス 等いはく、「悟道是本期 ゼホンゴ 《悟道是れ本期なり》 」。 かくのごとくいひていたづらに待悟す。 しかあれども、 仏祖の光明 にてらされざるがごとし。 たゞ真善知識に参取すべきを、懶惰 ランダ にして蹉過 サカ するなり。 古仏の出世にも度脱せざりぬべし。 〔『正法眼蔵』私訳〕   「 むしろ逆に悟りを借りるのかどうか 」。 この言葉を静かに親しく究め尽くして、 心の中のものとも取り換えなさい、 頭の中のものとも取り換えなさい 。 (「還仮悟否」。この道しづかに参究して、胸襟にも換却すべし、 頂𩕳 にも換却すべし。)   近頃、大宋国では、頭を剃って坊さんの格好をした連中が、 「仏道修行は道を悟ることが本来の目的だ」と言っている。 このように言って、無駄に悟りが来るのを待っている。 (近日大宋国禿子等いはく、悟道是れ本期なり。かくのごとくいひていたづらに待悟す。) そうであるけれども、 仏陀や祖師と同じような 自己の光明 に照らされないようなものである。 (しかあれども、仏祖の光明にてらされざるがごとし。) ただ真の善知識 (人を正しく導く師) について学ぶべきであるのに、 時間を無駄に過ごして 大道(自己の光明に照らされる在り様) を踏み間違えているのである。 (たゞ真善知識に参取すべきを、懶惰にして蹉過するなり。) たとえどんな仏の出生に出会っても、解脱しないであろう 。 (古仏の出世にも度脱せざりぬべし。) むしろ逆に悟りを借りるのかどうか 『第十大悟』10-4-2b                          合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                               ↓               ↓       にほんブログ村

正7-6-3a『第七一顆明珠』第六段3a 原文私訳〔どうあろうが、すべてはいつもみな明珠なのである〕

  〔『正法眼蔵』原文〕   既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。 しかあればすなはち、 転不転のおもてをかへゆくににたれども、すなはち明珠なり。 まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。 明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。 既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。 たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 サムサ も、たゞしばらく小量の 見 ケン なり、さらに小量に相似 ソウジ ならしむるのみなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている)とき に 珠を与える親友 (一顆明珠である自己) がいて、 親友 (一顆明珠である自己) には必ず珠を与えるのである。 (酔酒 スイシュ の時節にたまをあたふる親友あり、 親友にはかならずたまをあたふべし。) 珠を懸けられる時は、必ず酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている) のである。 (たまをかけらるゝ時節、かならず酔酒するなり。) 既にこのようであることは、 十方のすべての世界である一個の明珠なのである。 (既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。) そうであるから、転 (迷ったり) 不転 (悟ったり) と 表面を変るように見えても、中身は明珠なのである。 (しかあればすなはち、転不転のおもてをかへゆくににたれども、 すなはち明珠なり。) まさに珠はこうであると知る、すなわち これが明珠なのである。 (まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。) 明珠にはこのように (迷っても悟ってもみな明珠だと) 知られるありさま (声色) があるのである。 (明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。) 既にこのようであるので、自分は明珠ではないと戸惑っても、 明珠ではないと疑ってはならない。 (既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。) 戸惑い疑い、あれこれうろたえ回るありさまも、 ただしばらくの小さな考えである。 さらに言えば、明珠が小さな考えに見せかけているに過ぎないのである。 (たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 ...