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正6-22-3『第六行仏威儀』第二十二段③〔行仏は、一条の鉄か、両頭が動くのか〕

明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。


 〔『正法眼蔵』原文〕

一条鉄か、両頭動か。


一条鉄は長短にあらず、両頭動は自他にあらず。


この展事投機のちから、功夫クフウをうるに、威掩万法イエンマンボウ《威、万法を掩ふ》なり、眼高一世ゲンコウイッセ《眼、一世に高し》なり。


收放をさへざる光明あり、僧堂・仏殿・廚庫チュウク・山門。


さらに收放にあらざる光明あり、僧堂・仏殿・廚庫・三門なり。



〔抄私訳〕

「一条鉄か、両頭動か。一条鉄は長短にあらず両頭動は自他にあらず。

」(中略)とある。


「一条鉄」も「両頭動」も「長短にあらず」、「両頭動は自他にあらず」と、

「一」の語も「両」の語も「長短」「自他」に関わらず、

皆「行仏」の上の「一条」「両頭」「長短」「自他」である。


「威掩万法」とは、「万法」に掩オオわれるというのである。

これは「行仏威儀」に掩われているのである。

結局、「行仏威儀」の道理の外にない意味合いである。


「眼高一世」とは、尽十方界は沙門の一隻眼であり、

眼の外に何もないところをしばらく「高」と言うのである。


「収放」の言葉は、「光明」について出てきたのである。

仏を置いて、この上に「光明」を「放つ」時があり、

また「収める」時があるように思いがちであるが、

今の「光明」はそういうことではない。


雲門の言葉に、「いかなるか光明」とあった時、雲門が大衆に替わって《傍注:代に改めるのはいけない》、「僧堂・仏殿・廚庫・山門」と言われた。その言葉を今引き出されたのである。


結局、今の「光明」は、一般に思っている照らすものと照らされるものの

ことではない。日月珠光等の光の類ではない。


「僧堂・仏殿・廚庫・山門」の当体を指して「光明」と言うのである。

この道理こそ「収放をさへざる光明」とも言われ、

「収放にあらざる光明あり」とも言われるのである。

「光明」が究め尽くす道理はこのようである。


「光万象を呑み光何処に帰る」などという祖師の言葉が、

いかにも符合するのである。


〔聞書私訳〕

/「威掩万法なり」と言う、これは三界を一心に「威掩」する《ことごとくおく》というほどのことである。


「一条鉄」「両頭動」の「展事投機」を「威掩万法」と取る。


「眼高一世」とは尽十方界の眼の意である。


/「收放をさへざる光明あり、僧堂・仏殿・廚庫・山門」と言えば、今の「不知有」「却知有」も、「僧堂・仏殿」に心得を合わせるべきである。

ごちゃまぜにして、「三世諸仏」も「貍奴白牯」も同じと言えないことは、

すぐにこの下の言葉に、「この眼睛あるは、法の行仏をとき、

法の行仏をゆるすなり」とあるので、これを受けて心得るべきである。



〔『正法眼蔵』私訳〕

この行仏は、一条の鉄か、両頭が動くのか〔、と参究するのだ〕。

(一条鉄か、両頭動か。)


一条の鉄といっても、長短を超えており行仏でずっと貫くことである、

両頭が動くといっても、自他があるわけではない。

(一条鉄は長短にあらず両頭動は自他にあらず。)


この師家と学人が、行仏に力を尽くすと、

行仏の威儀が万法を掩い、三界を一目で見透すのである。

(この展事投機のちから、功夫をうるに、威、万法を掩ふなり、眼、一世に高しなり。)


収束と放散を妨げない光明がある、

僧堂・仏殿・廚庫・三門みなそれぞれの光明を放っている。

(收放をさへざる光明あり、僧堂仏殿廚庫三門。)


                                 合掌

                               


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