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正6-21-1『第六行仏威儀』第二十一段①〔いかなるか生、いかななるか死〕

〔『正法眼蔵』原文〕

しかあれば、句中取則し、言外求巧ゴンゲグギョウする再三撈摝ロウロク

それ把定ハジョウにあまれる把定あり、放行ホウギョウにあまれる放行あり。


その功夫クフウは、いかなるかこれ生、いかなるかこれ死、

いかなるかこれ身心、いかなるかこれ与奪、いかなるかこれ任違。


それ同門出入の不相逢フソウホウなるか、

一著落在イチヂャクラクザイに蔵身露角ゾウシンロカクなるか。


大慮而解ダイリョニゲなるか、老思而知ロウシニチなるか、一顆明珠なるか、一大蔵教なるか、一条拄杖なるか、一枚面目なるか。

三十年後なるか、一念万年なるか。


子細に検点し、検点を子細にすべし。



〔抄私訳〕

「句中取則」(句中に則を立てる)の言葉は、古い言葉である。ただ、それがそれであるという意味合いに使うのである。「把定」(つかむ)にあまり「放行」(放つ)にあまるとは、「把定」を「あまる」と使う。「放行」もこれと同じで、そのほかの意味ではない。


「その功夫は、いかなるかこれ生、いかなるかこれ死、いかなるかこれ身心、いかなるかこれ与奪、いかなるかこれ任違。それ同門出入の不相逢なるか、」とある。


「いかなるかこれこれ」とたくさんあげられるが、これは例の疑う義ではない。「これ」「これ」の言葉は、皆「これ」という意味合いである。「同門出入の不相逢」は、同じ門があり、出入りしても出会わず、相対するものではないということである。


『仏性』の巻の「衆生快便難逢カイビンナンホウ(衆生は仏性であるから、仏性と逢うことはできない)という意である。仏法の説く所は、どの言葉も「不相逢」(一方独立)の理である。


「一著落在に蔵身露角なるか。大慮而解なるか、老思而知なるか、一顆明珠なるか、一大蔵教なるか、一条拄杖なるか、一枚面目なるか。三十年後なるか、一念万年なるか。子細に検点し、検点を子細にすべし。」とある。


「蔵身露角」とは、身は蔵カクれ角ツノは露アラわであるということである。これは、「生」と言う時は、「死」は「蔵身」(身を蔵す)し「生」は「露角」(角を露す)するのである。


あるいは、蚯蚓キュウイン(みみず)と言った時は、「仏性」は「蔵身」し、蚯蚓は「露角」するのである。「大慮而解」とは仏を指すのである。


「老思而知」「大慮而解」はともに古い言葉である。これらも「か」の字については疑問かと思われるがそうではなく、「説似一物即不中」(一物を説似するも即ち当たらず)の道理である。


また、「子細に検点し、検点を子細にすべし」とは、「子細に検点す」と言えば、やはり人を置いて委しく考え知れという意味合いに誤るであろう。「検点を子細にすべし」と言えば、能所(行為者・対象物)はないのである。発菩提心(菩提心を発こす)を菩提心発(菩提心が発こる)と言ったようなものである。


                            合掌



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