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正6-20-2『第六行仏威儀』第二十段②〔明るさは、行仏によって天地に満ち満ちている〕

〔『正法眼蔵』原文〕

その明上又明メイジョウユウメイの明は、行仏に彌綸ミリンなり。


これ行取に一任せり。


この任々の道理、すべからく心シンを参究すべきなり。


その参究の兀爾コツジは、万回バンカイこれ心シンの明白メイビャクなり。


三界ただ心の大隔ダイカクなりと知及チギュウし会取エシュす。


この知及・会取、さらに万法なりといへども、

自己の家郷を行取せり、当人の活計を便是ベンゼなり。



〔抄私訳〕

「その明上又明の明は・・・中略・・・当人の活計を便是なり。」とある。

「行仏」を指して、「明上又明の明」を言うのである。「明尽」(明らめ尽くす)と言われる明のことである。この「行取」とは、「行仏」の行であり、

「行仏」に任せているのである。


この「任々」は、生にも死にも明にも当たるのである。

行取」ばかりに限らないという意味合いである。

そこで先ず心を参究すれば、どんなことも解脱しているという様子である。


「その参究の兀爾」は、兀坐ゴツザなどと坐禅のことを言うのである。


「万回これ心の明白なり。三界たゞ心の大隔なりと知及し会取す」とは、

「三界」という時は、唯一心の心は「大隔」と言われる。たとえば、仏性に狗子の「大隔なり」というほどの義である。また、「一方を証すれば、一方はくらし」という意味合いであり、至って親切な「大隔」である。一般に、隔つという言葉を使うのは、これを置いてあれと隔たっていると理解するが、ここでは行き着く所が一つである道理を「大隔」と言うのである。


「知及」も「会取」も、人がいて「知及・会取」する義ではない。

万法が万法を「知及し会取する」のである。


「自己の家郷を行取せり、当人の活計を便是なり」とは、「自己の家郷」とは万法の当体を「家郷」と言うのである。「当人の活計」とは自己を示すのである。今の「自己」とは、たとえば、生とも死とも、心とも三界とも言うのを、「自己」と言うのである。生の「自己」、死の「自己」、心の「自己」、三界の「自己」である。


〔聞書私訳〕

/「任々の道理」は、仏を仏に任せ、心を心に任せ、三界を三界に任すのである。


/「三界ただ心の大隔なり」とは、「三界」を一心と言い、「隔」はそのまま「三界」であるからこのように説く、これが「大隔」であり、「任々」であり、心々なのである。


/「自己の家郷」とは、解脱の自己である。「行取」するから万法と自己と同じである。


/「当人の活計を便是なり」と言う。

この「当人」は解脱人であり、行仏(行仏という名の仏)である。


/「古今のときにあらず」と言っても、「行仏の威儀」とは、「生死」は元来とも言わず、今とも言わないから、「古今のときにあらず」と言うのである。「了生達死」とはこのようなことである。

「行尽明尽、これ強為の為にあらず、迷頭認影に大似なり。回光返照に一如なり。」とある。


/「迷頭認影」とは、自分の頭の影を知らないで怪しみ、怪しむけれども自分の頭の影であるからこのように説くのである。


/「大似なり」とは、別の物であれば似ていると言うが、これは同じ物を「大似」と言うのである。


「回光返照」は「明上又明メイジョウユウメイ」であり、これが「行仏」である。

「悟上得悟の漢」と、「迷中又迷の漢」は、同じことである。



〔『正法眼蔵』私訳〕

その明らかな上にさらに明らかな明るさは、

行仏(今の様子の通りにいる行仏という名の仏)によって天地に満ち満ちている。

(その明上又明の明は、行仏に彌綸なり。)


これは行仏になり切っているのである。

(これ行取に一任せり。)


生も死も行仏に任せきるというその心をよく参究すべきである。

(この任任の道理、すべからく心を参究すべきなり。)


その参究をゆるぎなく行うならば、万法マンボウ(あらゆるもの)

心であることが明らかになるのである。

(その参究の兀爾は、万回これ心の明白なり。)


三界(三つの迷いの世界)という時は心は顔を出さず、

心という時は三界は顔を出さないと知り会得するのである。

(三界ただ心の大隔なりと知及し会取す。)


これを知り会得してみると、改めて万法だといっても、

自己の心を行じたのであり、当人の日常の生活がすなわち行仏なのである。

(この知及会取、さらに万法なりといへども、

自己の家郷を行取せり、当人の活計を便是なり。)


                                合掌


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