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正6-19-1『第六行仏威儀』第十九段①〔浄土・天堂は輪廻することと同じである〕

 〔『正法眼蔵』原文〕

 しるべし、安楽・兜率トソツといふは、

浄土・天堂ともに輪廻リンネすることの同般なるとなり。


行履アンリなれば、浄土・天堂おなじく行履なり。


大悟なれば、おなじく大悟なり。大迷なれば、おなじく大迷なり。


これしばらく行仏の鞋裏アイリの動指なり。


あるときは一道の放屁声ホウヒショウなり、放屎香ホウシコウなり。


鼻孔あるは臭得キュウトクす、耳処ニショ・身処・行履処あるに聴取するなり。


又、得吾皮肉骨髄するときあり、さらに行得に他よりえざるものなり。



〔抄私訳〕

「しるべし、安楽・兜率といふは、浄土・天堂ともに輪廻することの同般なるとなり。」とある。

これは、「輪廻」の言葉を普通に心得て、「安楽」と「兜率」と別々に出るように思われるが、ただ同時に出るのである。「輪廻」の言葉も、これがあれに「輪廻」すると心得てはならない。只、無始無終の道理を「輪廻」と使うのである。今の「安楽」と「兜率」の姿を指して「輪廻」と説くのである。


「行履なれば、浄土・天堂おなじく行履なり。大悟なれば、おなじく大悟なり。大迷なれば、おなじく大迷なり。これしばらく行仏の鞋裏の動指なり。」とある。

これは、一法究尽一法に通じれば、万法を究め尽くすの理を取り上げられるのである。あれこれと行仏威儀の現成する姿を取り上げられるのである。「鞋裏の動指」とは、「行仏」の行の字に関連して「鞋裏」と引き出されるのである。「鞋裏」に「動指」の言葉も、縁のある言葉である。文章を上手に書くというのは、才能や学問によって縁のある言葉を引き寄せ、しかもその理に異ならないように書くのを、文章の達者と言うのである。この『正法眼蔵』の一字一句の姿は、今の理でないということはない。よくよく静かに見て考えるべきことである。倉卒であってはその理は現れない。


「あるときは一道の放屁声なり、放屎香なり。鼻孔あるは臭得す、耳処・身処・行履処あるに聴取するなり。」とある。

この言葉は大変耳目を驚かすように思われるが、祖師の言葉で、余りに一切の事が正常でなくなった時、このような言葉で法を表される事がある。ただ、祖師は皆法の道理によって述べられるが、我々は、法の最極サイゴクを知らずに、宗とする凡夫の考えを基準として一切の事を心得ているので、このような言葉に迷い驚き疑い恐れるのである。つまり、愚かで迷いの甚だしい者が到る所であり、恨むべきことである。


幸いにも今大乗の直指(直接、端的にそのものを示す)の法に会い、決して参学を捨て置いてはならない所なのに、今生を空しく駆け過ぎようとするのは口惜しい事である。そもそも、尽十方界真実人体(尽十方界はこの真実人体である)と言う時の「放屁声」とはどのようであろうか。この真実人体の上に具わっている調度品なので、今引き出されたのである。そうであるのに、凡夫の身に具っている考えによってこれを驚くことは甚だ理由がないことである。


たとえ、戒定慧の香を嗅ぎ、八音仏の音声にそなわる八種の音四弁四種の自由な智解と弁才の声を聞くというのを、非常に奥深い法だと心得て、今の「放屁声」「放屎香」などを嫌うようでは法に取捨が出てきて、善悪が相対するものとなろう。重ね重ねそうあってはならない事なのである。


一般には、鼻で香を嗅ぎ、耳で声を聞くと思い慣れているが、今は、「耳処・身処・行履処で聴取するなり」とある。この事もはじめてのように驚くべきではない。


昔も、仏を乾屎撅カンシケツ(くそかきべら=仏性丸出し)などという言葉があった。故嵯峨の正信上人が、仏を乾尿撅・殺仏(仏になり切ること)などと道元禅師が説法の時に言われたのを聞いて、「ああ口惜しい、仏をこのような物に喩える禅宗とは恐ろしいものだなあ」といって涙を流された。


この事を道元禅師が漏れ聞いて、「あれほど愚かであるのに、人に戒を授け帰依されるとは、不憫な事である。われも涙目であれば涙を流すにちがいないことである」と言われた。ものの見方の黒白は、これになぞらえて知るべきであり、おもしろい話である。


「又、得吾皮肉骨髄するときあり、さらに行得に他よりえざるものなり」とある。

「又、得吾皮肉骨髄するとき」とあるが、「行得に他より」この「皮肉骨髄」は得ないのである。「行得」とは、「行仏」の時刻を指すのである。



                                 合掌


                         

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