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正6-18-1『第六行仏威儀』第十八段①〔この連中は罪根が幾重にも積み重なっており、憐れむべき者である〕

 〔『正法眼蔵』原文〕

 諸仏いはく、「此輩罪根深重シハイザイコンジンジュウなり、可憐憫者カレンミンシャなり」。


「深重」の「罪根」たとひ無端なりとも、「此輩」の深重担タンなり。


この深重担、しばらく放行ホウギョウして著眼看チャクガンカンすべし。


把定ハジョウして自己を礙ギすといふとも、起首にあらず。


いま行仏威儀の無礙ムゲなる、ほとけに礙せらるゝに、

拕泥滞水タデイタイスイの活路を通達しきたるゆゑに無罣礙ムケゲなり。



〔抄私訳〕

「此輩」とは、しばらく今の凡夫を指すのである。「深重」(幾重にも積み重なっている)という事は、妄法(真実でない存在)に概してその実がないから、この「深重」は「此輩」に負わせて言う言葉である。「深重」は「無端なり」というのは、端が無いといって総じて始めも終わりもないような事である。


だから、「深重担」は「此輩の深重担」であり、彼をしばらく「深重担」というのである。この「深重」の姿が無自性であるからには、行仏威儀(たった今を生きる行仏という名の仏の必ずその通りある身心の在りよう)が現前する時、

決して肩を並べることはできないというのである。


「此輩」は、今の「凡夫外道」等を指す。この「放行(手放す)して著眼看(眼をつけて見る)すべし」とは、行仏(たった今を生きる行仏という名の仏)の方からよく学んでみるべきであるという意味合いである。


「把定(把トラえる)して自己を礙す(妨げる)と云うとも」とは、

自己とはいっても、この行仏の上の自己は、

始めとも終わりとも取るべき所がない道理である。


「いま行仏威儀の無礙なる、ほとけに礙せらるゝに、拕泥滞水の活路を通達しきたるゆゑに無罣礙なり。」とある。

これは、今の行仏威儀が独立し物に妨げられない所が、

「拕泥滞水《和光同塵(仏・菩薩が衆生を救うため、自分の本来の知徳の光を隠し、俗世に身を現すこと)などという意味合いである》の活路を通達しきたるゆえに無罣礙なり」と言うのである。


〔聞書私訳〕

/「いま行仏威儀の無礙なる、ほとけに礙せらるるに、拕泥滞水の活路を通達しきたる」とは、教えによって異なる仏を「拕泥滞水」と言うのであろうが、これは「行仏」ではない。ただ、「活路を通達する」のを「行仏」と言う。


「行仏」には、天上界・人間界という事は少しも交じらないけれども、衆生を教化するということに引かれて出てくるのである。「拕泥滞水」というのも、天上界・人間界の衆生を教化する意である。「花開の功徳」というのもこれである。花が開くことと世界が起ることは、二つではない。只、仏の功徳を「花が開き世界が起る」と言うのである。



〔『正法眼蔵』私訳〕

諸仏は言う、「この連中は罪根(苦の報いを受けるもととなる行為)

幾重にも積み重なっており、憐れむべき者である」。

(諸仏いはく、「此輩罪根深重なり、可憐憫者なり」。)


幾重にも積み重なった罪根がたとえ始めも終わりもなくても、

この連中には大変な重荷である。

(「深重」の「罪根」たとひ無端なりとも、「此輩」の深重担なり。)


この深重な重荷という思いをしばらく手放して、

罪というものに眼をつけてよく見てみよ。

(この深重担、しばらく放行して著眼看すべし。)


罪そのものを取り上げてみると、罪のために自己が妨げられる

思いがするが、〔もともと無生の罪根、不可得の重荷だから、〕

ここが罪の起り始めだということではない。

(把定して自己を礙すといふとも、起首にあらず。)


今の行仏威儀は妨げるものがなく、

(たった今のところに生きる人)になり切っているので、

拕泥滞水(泥まみれずぶ濡れになって衆生済度する)の活き活きとした大道を

ずんずん通り抜けているから、自由自在である。

(いま行仏威儀の無礙なる、ほとけに礙せらるるに、

拕泥滞水の活路を通達しきたるゆえに無罣礙なり。)



                        合掌


                         

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