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正6-16-3『第六行仏威儀』第十六段③〔行仏の威儀を見ようとするときは、 天上界・人間界の眼を用いてはならない〕

 〔『正法眼蔵』私訳〕

行仏の威儀を覰見チョケンせんとき、天上人間のまなこをもちいることなかれ、天上人間の情量をもちいるべからず。


これを挙して測量シキリョウせんと擬することなかれ。


十聖三賢ジッショウサンケンなほこれをしらずあきらめず、

いはんや人中ニンチュウ天上の測量のおよぶことあらんや。


ニン量短小なるには識智も短小なり、寿命短促なるには思慮も短促なり。


いかにしてか行仏の威儀を測量せん。



〔抄私訳〕

「行仏の威儀を覰見せんとき、天上人間のまなこをもちいることなかれ、

天上人間の情量をもちいるべからず。これを挙して測量せんと擬することなかれ。十聖三賢なほこれをしらずあきらめず、いはんや人中天上の測量のおよぶことあらんや。」とある。

文の通りに心得るべきである。いかにもその趣旨がある。


「人量短小なるには識智も短小なり、寿命短促なるには思慮も短促なり、いかにしてか行仏の威儀を測量せん。」とある。

このくだりは文のように証拠が明らかである。人間界でも、その品格が卑しければ思慮も至らない。上様になったら思慮分別も下劣ではない。まして、凡夫の「思慮」で「行仏の威儀を測量せん」ことは、言うまでもない事である。


〔聞書私訳〕

/「人量短小なるには識智も短小なり、云々。」とある。

このくだりはよく分からないことである。人間界の中で、果報や寿命などはこの南州は殊に劣っているが、仏法を会得する智は勝れている、どういうことか。


或る者が答えて言う、仏道に入ればこの南州の人ではないから、

寿命の長短、果報の勝劣は比べるべきではないのは当然の事である。


/法身の上には、どんなものも置くことはできない。それなのに、新仏が世に出て三十二相すぐれた外見的な身体的特徴を現じては三十二相を全体脱落し、八十随形好(付随的特徴)を現じては八十随形好を全体脱落し、とこのようにするのである。


後では、「若し色(形あるもの)を以て我を見れば、如来を見ること能わず」と述べられる。「眼で声を聞き耳で色を見る」のが、仏威儀(必ずその通りになる身心の様子)である。


そもそも、六根(感覚器官)は互いに融け合うという事があり、六根が清浄であるというのもこれである。ただこれも、目で物を聞き、耳で物を見る事が、凡夫の考えのようであるならどうしようもない。ただ、目に耳を替えただけならば、何の要があろうか。


一時の不思議ではあるが、空居天クウゴテン(神が空に居る世界)の衆生が空を歩くのは、人間界では不思議であるが空居天では普段のことと思うようなものである。


「我れ本モト誓願を立つ、皆をして仏道に入らしめん」とあれば、「如我等無異」一切の衆生を自分と同じ仏にして、異なることがないようにしたいなのである。



〔『正法眼蔵』私訳〕

行仏の威儀(必ずその通りある身心の様子)を見ようとするときは、

天上界・人間界の眼を用いてはならず、

天上界・人間界の考えを用いてはならないのである。

(行仏の威儀を覰見せんとき、天上人間のまなこをもちいることなかれ、

天上人間の情量をもちいるべからず。)


そのような仕方で推し測ろうとしてはいけない。

(これを挙して測量せんと擬することなかれ。)


十聖三賢(修行の上位の段階)の菩薩でさえ、これを知らず明らめていない。

ましてや人間界・天上界の衆生が推し測って分かるものではないのである。

(十聖三賢なほこれをしらずあきらめず、

いはんや人中天上の測量のおよぶことあらんや。)


人間の身体が短小なことからすれば知力も短小であり、

寿命が短促なことからすれば思慮も短促なのである。

どうして広大な行仏の威儀を推し測ることなどできようか。

(人量短小なるには識智も短小なり、寿命短促なるには思慮も短促なり、

いかにしてか行仏の威儀を測量せん。)



                         合掌


                         

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