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正6-16-2 『第六行仏威儀』第十六段②〔仏から仏へと正伝する大道が、釈迦と迦葉の間の断絶を超越〕

〔『正法眼蔵』原文〕

仏々正伝する大道の、断絶を超越し、無始無終を脱落せる宗旨シュウシ

ひとり仏道のみに正伝せり。


自余の諸類、しらずきかざる功徳なり。


行仏の設化するところには、四生にあらざる衆生あり。


天上・人間・法界等にあらざるところあるべし。



〔抄私訳〕

「仏々正伝する大道の、断絶を超越し、無始無終を脱落せる宗旨シュウシひとり仏道のみに正伝せり。自余の諸類、しらずきかざる功徳なり。」とある。


この言葉は理解できない、「大道の断絶」とはどのようなことであるか。「仏々正伝する大道の」と読み切り、「断絶」の断を、ことわると言うのか。


《補足:ただ、この「断絶」の言葉は、》そうであれば、「仏々正伝する大道」のことわりを「超越し」と言う

のであろうか。もう一つの意味では、「滅度現」の滅度は一般の滅度

でないから、暫く「断絶」と言うのであろうか。《仏法の上を指して言うか、どうか。》これを「超越」とも心得るべきという一義もあろうか、

追ってよく考えてみるべきである。


「行仏の設化するところには、四生にあらざる衆生あり。

天上・人間・法界等にあらざるところあるべし。」とある。


「四生にあらざる衆生」とは、『現成公安』の巻で、「諸法の仏法なる時節、

諸仏あり衆生あり」と言われた衆生である。

「天上・人間・法界等にあらざるところ」とは、確かに「天上界・人間界」

でない所がある。


つまり、拄杖シュジョウの上にも、払子ホッスの上にも、微細なチリ一つにもその所があるのである。

又、この「四生」とは凡夫が心得ている「四生」の事である。

その外に衆生があるというのは、真実人体の衆生である。


〔聞書私訳〕

/「仏々正伝する大道の、断絶を超越し、無始無終を脱落せる宗旨、

ひとり仏道のみに正伝せり」とある。


これはただありさまを説くのである。迦葉仏と釈迦仏の間を「断絶」と

言われるのである。相伝するのだというのが「超越」の義であるのである。



〔『正法眼蔵』私訳〕

仏から仏へと正伝する大道が、釈迦と迦葉(釈迦の弟子)の間の断絶を超越し、無始無終を脱落する根本のところは、

ただ仏道だけに正伝するのである。

(仏々正伝する大道の、断絶を超越し、無始無終を脱落せる宗旨、ひとり仏道のみに正伝せり。)


仏道以外の諸々の類タグイが知ることも聞くこともない功徳である。

(自余の諸類、しらずきかざる功徳なり。)


行仏(今の様子を生きる行仏という名の仏)が衆生を教化するところでは、

四生(胎・卵・湿・化生)でない衆生があり、

天上界・人間界・法界等でないところがある。

(行仏の設化するところには、四生にあらざる衆生あり。

天上・人間・法界等にあらざるところあるべし。)


                         合掌


                         

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