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正6-16-1『第六行仏威儀』第十六段①正釈迦牟尼仏は、兜率天に往かれ、兜率天を教化して今もそこにおられる

〔『正法眼蔵』原文〕

 祖宗いはく、

「釈迦牟尼仏シャカムニブツ、自従迦葉仏ジジュウカショウブツ所伝正法、

往兜率天オウトソツテン、化兜率陀天ケトソツダテン、于今有在ウコンウザイ

《釈迦牟尼仏、迦葉仏の所ミモトにして正法を伝へてより、

兜率天に往いて、兜率陀天を化して今に有在マシマす》」。


まことにしるべし、

人間の釈迦は、このとき滅度現の化をしけりといへども、

上天の釈迦は、「于今有在ウコンウザイ」にして化天するものなり。


学人ガクニンしるべし、人間の釈迦の千変万化の道著ドウヂャクあり行取ギョウシュあり説著セッヂャクあるは、人間一隅の放光現瑞ズイなり。


おろかに上天の釈迦、その化さらに千品ボン万門ならん、

しらざるべからず。



〔抄私訳〕

このことは本当に疑わしいことである。その理由は、「釈迦」は既に入滅(涅槃に入る)され、「兜率天トソツテン」には五十六億七千万年後に、弥勒ミロク菩薩が出現されると言うのに、入滅した「釈迦」が「兜率天」に往ってその天上界で教化され「今に有在す」(今もそこにおられる)というのは、本当に疑わしいことである。


もっとも、今の釈尊・迦葉・弥勒等の皮肉骨髄(全身心)が通じる所は決して隔たりがないから、「上天の釈迦」とは弥勒を指すのである。


「学人しるべし、人間の釈迦の千変万化の道著あり行取あり説著あるは、人間一隅の放光現瑞なり。おろかに上天の釈迦、その化さらに千品万門ならん、しらざるべからず。」とある。


「人間の釈迦」とは、「滅度現」(涅槃が現れる)の「釈迦」を指すのである。確かに、釈迦一代の言葉・説法・行などは、皆「人間一隅の放光現瑞」(人間界の一隅で光明を放ち奇瑞を現わすこと)であるが、天上界に上がった「釈迦」の教化はどれほどであろうか。「千品万門」(幾千幾万の多様な教え)があると心得るべきである。



〔『正法眼蔵』私訳〕

歴代の祖師が言う、

「釈迦牟尼仏は迦葉仏のところで正法を伝えられてから、兜率天に往かれ、兜率天を教化して今もそこにおられる」と。

(祖宗いはく、「釈迦牟尼仏、自従迦葉仏所伝正法、往兜率天、化兜率陀天、于今有在《釈迦牟尼仏、迦葉仏の所にして正法を伝へてより、兜率天に往いて、兜率陀天を化して今に有在す》」。


まさに知らなけばならない、

人間界の釈迦は、この時滅度(涅槃:生死を超えた悟りを得てこの世を離れること)を現わすことによって衆生を教化されたけれども、

天上界に上がった釈迦は、今もそこにおられて天上界の衆生を教化されているのである。

(まことにしるべし、人間の釈迦は、このとき滅度現の化をしけりといへども、

上天の釈迦は、「于今有在ウコンウザイ」にして化天するものなり。)


仏道を学ぶ者は知らなけばいけない、

人間界の釈迦に千変万化の言葉があり修行があり説法があるのは、

人間界の一隅で光明を放ち奇瑞を現わすことである。

(学人しるべし、人間の釈迦の千変万化の道著あり行取あり説著あるは、

人間一隅の放光現瑞なり。)


天上界に上がった釈迦には、さらに幾千幾万もの教化があろうが、

愚かにもそれを知らないようなことがあってはならない。

(おろかに上天の釈迦、その化さらに千品万門ならん、しらざるべからず。)




                          合掌


                         

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