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正6-11-1『第六行仏威儀』第十一段①〔極大は小と同じ極小は大と同じ〕

 〔『正法眼蔵』原文〕

 学人おほくおもはく、「尽乾坤ジンケンコン」といふは、この南瞻エン部州をいふならんと擬せられ、又この一四州をいふならんと擬せられ、ただ又神丹シンタン一国おもひにかゝり、日本一国おもひにめぐるがごとし。


又、「尽大地」といふも、たゞ三千大千世界とおもふがごとし、わづかに一州一県をおもひにかくるがごとし。


尽大地・尽乾坤の言句を参学せんこと、三次五次も思ひめぐらすべし、ひろきにこそはとてやみぬることなかれ。


この得道は、極大同小、極小同大の超仏越祖チョウブツオッソなるなり。



〔抄私訳〕

「三次五次」とは、只何度もしっかりと参学すべきであるというのである。

「極大同小、極小同大の超仏越祖なるなり。」とある。これは大小に違いがない義であるから、「超仏越祖」と言うのである。


「大の有にあらざる、小の有にあらざる、疑著ににたりといへども、威儀行仏なり。」とある。これは、いかにも大小の「有」を、疑っているようであるが、皆これは「威儀行仏」なのである。この「威儀行仏」は逆のように思われるが、「威儀儀威」(威(威厳)が即ち儀(儀容)、儀が即ち威である)というほどの意味である。


〔聞書私訳〕

/「三次五次」とは再三という意味合いであり、三度も五度もただ思い巡らせというのである。


/「極大同小」(極大は小に同じ)「極小同大」(極小は大に同じ)とは、大も小も究極の位を同じと使うのである。例えば、「心仏及衆生是三無差別」(心と仏及び衆生はいずれも真如であり、是の三つは差別が無い)というようなことである。また、全機現(全分の働きが現成している)のようなことである。


大は小に対さず、小は大に対さず、ただ大も小も極大であるというのである。小を詰め込み極限に達した大だと言うなら、大であっても染汚ゼンナ(もう一つのありようが出てきて染まり汚れる)の大であり、極限と言うことはできない。つまるところ、大があるのではなく小があるのではなく、ただ「行仏の威儀」なのである。



〔『正法眼蔵』私訳〕

 仏道を学ぶ者の多くが思うには、全天地とは、この我々が住んでいる南瞻部州(須弥山の南の州)を言うのであろうと考え、またこの四州(須弥山の四方にある四州)を言うのであろうと考え、ただあるいは支那人には支那一国が思いにかかり、日本人には日本一国が思いに巡るようなことである。

(学人おほくおもはく、尽乾坤といふは、この南瞻部州をいふならむと擬せられ、又この一四州をいふならむと擬せられ、ただ又神丹一国おもひにかかり、日本一国おもひにめぐるがごとし。)


また、全大地というのも、ただ三千大千世界(千の三乗の世界:全宇宙)と思うようなものであり、あるいは、わずかに一州一県に思いをかけるようなものである。

(又、尽大地といふも、ただ三千大千世界とおもふがごとし、わづかに一州一県をおもひにかくるがごとし。)


全大地・全天地の言葉を学ぶには、三回も五回も思いを巡らすべきであり、

広いことを言うのだろうと思いそこで止めてはいけない。

(尽大地・尽乾坤の言句を参学せんこと、三次五次も思ひめぐらすべし、

ひろきにこそはとてやみぬることなかれ。)


この大道を得ることは、極大は小と同じであり極小は大と同じであると

大小を超え、仏祖を超えることである。

(この得道は、極大同小、極小同大の超仏越祖なるなり。)



                        合掌



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