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正6-10『第六行仏威儀』第十段〔生れることは道と一緒に生まれることである〕

〔『正法眼蔵』原文〕

 しるべし、出生合道出なり、入死合道入なり。


その頭正尾正ズシンビシンに、玉転珠回ギョクテンシュカイの威儀現前するなり。


仏威儀の一隅を遺有ケンウするは、尽乾坤ジンケンコン大地なり、尽生死去来なり。


塵刹ジンセツなり、蓮華レンゲなり。これ塵刹・蓮華、おのおのの一隅なり。



〔抄私訳〕

「出生合道出」とは、生に出るのは道に合して出、「入死合道入」とは、死に入るのは道に合して入るということである。


「合道ガッスル」とは、今の「行仏の威儀」(行仏という名の真実のありようの必ずその通りにある身心の様子)の道に合することである、生死は一緒に道に合し、出入も同じく一緒に道に合することである。


だから「頭正尾正」(始めも正しく終わりも正しい)も「玉転珠回」(玉が転がり珠が回る)の道理であると言われるのである。「玉転珠回」とは、共に玉であり、

めぐりまわりただ同じことであり同じ意である。玉が玉を回るのである。「出入」「生死」の道理は、ただ「玉転珠回」の道理なのである。


これは「尽乾坤」「尽生死去来」「塵刹」「蓮華」等をあげて「行仏威儀」を表されるのである。次の段で、「学人おほくおもはく」といってこれを解釈される。文の通りに心得るべきであり、別に子細はない。


〔聞書私訳〕

/「しるべし、出生合道出なり、入死合道入なり」とある。

「出入」も「生死」も、仏道に合して仏道の高さで言うことを「合道」と言うのである。


/「一隅を遺有する」と言う、「有を遣る」(有を与える)と読む。「一隅」の有をあげて有というだけでない所を「遣有」と言うのである。つまるところ、「有」を「有」と心得るのである。


/「尽乾坤」とは、「出入同門」「出生合道出」等こそ「尽乾坤」であり、一国或いは一州と思ってはならないと言う。「這頭那頭不用シャトウナトウフヨウ(こちらでもいらない、あちらでもいらない)ほどの時に、「出入同門」と使うのである。


「錯々」という道理は、「如何なるかこれ聖ショウ」と問う時も、禅床より下りて叉手シャシュ(両手を重ねて胸の前に保つ)して立ち、「如何なるかこれ凡」と問う時も、禅床より下りて叉手して立ち、「凡聖相去る事如何」と問う時も、叉手して立つほどの言葉である。


/「尽生死去来なり、塵刹なり、蓮華なり、これ塵刹・蓮華、おのゝゝ一隅なり。」とは、この「塵刹」は塵々刹々といって、多い数にも使う。又、国土世界にも使う事があり、塵労といってけがれている事にも使う。「蓮華」は泥に染まらない清浄なものに対しても言う。「塵刹なり、蓮華なり」と使うのは、同じ言葉である。一塵というのも法界という意味合いである。


「行仏威儀」の時は、「塵刹」も「蓮華」も「玉転珠回」の頭正尾正なのである。



〔『正法眼蔵』私訳〕

知るといい、生れるということは道と一緒に生まれることであり、

死ぬということも道と一緒に死ぬことである。

(しるべし、出生合道出なり、入死合道入なり。)


この生死は始めから終わりまで道を外れることはなく、

玉が転がり珠が回るように自由自在に仏の威儀が現れるのである。

(その頭正尾正に、玉転珠回の威儀現前するなり。)


仏の威儀が一隅の存在を与えるのは、全天地であり、全生死・全去来である。

穢土であり、浄土である。

(仏威儀の一隅を遺有するは、尽乾坤大地なり、尽生死去来なり。塵刹なり、蓮華なり。)


この穢土も浄土も、仏の威儀のそれぞれの一隅なのである。

(これ塵刹・蓮華、各々の一隅なり。)

 

                         合掌



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