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正6-5-2 『第六行仏威儀』第五段②〔聞書私訳〕

/「我本行菩薩道、所成寿命、今猶未尽、復倍上数なり

《我れ本より菩薩道を行じて、成る所の寿命、今なほ未だ尽きず、

また上の数に倍せり》。」とある。


「菩薩の道」の「成る所」は、必ずしも「寿命」だけを挙げるべきではなく、

不審である。もっとも、これは『法華経寿量品』の本文で、

釈迦の寿命を明らかにして久遠実成(久遠の昔に成仏した)の仏であることを表すために「寿命」と言うのである。


ただ、「成る所」の眼晴とも「成る所」の鼻孔と言っても、同じ事である。

又、「寿」といっても我々の命を指すように心得てはならず、

「行」がそのまま「寿命」でもある。

「菩薩行」と「菩薩の寿命」は、まったく同じ事である。


/「我本行菩薩道」の我れは吾我(自我意識の吾)ではなく、「菩薩道」について「我れ」と言うのである。

「本行」の行は今の「行仏」行仏という名の仏)の行である。


また、誰の「寿命」と言い難く、誰の「本行」とも言うことはできない。

この時は、仏も菩薩も勝劣がないのである。

また、仏の字を菩薩に取り替えて我本行仏道(我れ本より仏道を行ず)と心得るのである。


「また上の数に倍す」の「上」は、無上というのであり、

下に対しない大大超などという程の「上」である。


/「我本行たとひ万里一条鉄なりとも、百年抛却任縦横なり」とは、

上に、「化機ケキ漏泄ロセツすること、互時なり、互方なり、互仏なり、互行なり」(衆生教化のはたらきが漏れる、それが二十四時間にわたり、あらゆる方角に行きわたり、

三世十方の諸仏に行きわたり、一切の行に行きわたるのである)という意である。


諸乗・一仏乗などということは、この「一条鉄」「抛却」のことである。

三世の「抛却」を「百年」と指すのである。


/「修証は染汚にあらず」と言う、「不染汚」(何にも染め汚されないこと)は必ずしも修行のみではなく、「行仏」の「不染汚」もあるのである。


/「無仏無人の処在に百千万ありといへども、行仏を染汚せず」とは、

悟りを待たず、又、「染汚」でないために、仏も人もないのである。

これは、身土不二(身体と国土は一つである)と言えば「無仏無人」の意である。


また、「修証は無にあらず修証は有にあらず」と言った時に、

無を解釈する言葉として「無仏無人」と言い、有を解釈する所で「処在」とも言い、

「百千万あり」とも使うのである。

別に、「無仏無人」の所があり、「百千万」の別の物があるのではない。

有無の言葉を使う事は、この禅門の道理をよくよく心得るべきである。


/「行仏の修証に染汚せられざるなり。修証の不染汚なるにはあらず、

この不染汚、それ不無なり」とある。


「この不染汚、それ不無なり」と言う時に、「不染汚」の解釈と思われた。

ことの起こりは、「修証はなきにあらず染汚することを得じ」と言い、

「不染汚」をまた「不無」と言う時に、「行仏」「修証」「不染汚」の三方を等しくし

たのである。だから、「行仏の修証に染汚せられざるなり。修証の不染汚なるには

あらず」と言うのである。


                             合掌



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