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正6-4『第六行仏威儀』第四段 〔法性に即して、法性という考えを起すのは、無明である〕

 

〔『正法眼蔵』原文〕

 教家キョウケ経師キョウジ論師ロンジ等の仏道を遠聞せる、なほしいはく、

「即於法性ソクオホッショウ、起法性見キホッショウケン、即是無明ソクゼムミョウ

《法性に即して、法性の見を起す、即ち是れ無明なり》」。


この教家のいはくは、法性に法性の見おこるに、法性の縛をいはず、

さらに無明の縛をかさぬ、法性の縛あることをしらず。


あはれむべしといへども、無明縛のかさなれるをしれるは、

発菩提心の種子シュウジとなりぬべし。


いま行仏、かつてかくのごとくの縛に縛せられざるなり。



〔抄私訳〕

これは、「即ち是れ無明なり」という無明の言葉をこのように斥けられるのである。


「法性に即して法性の見を起す、即ち是れ無明なり」という言葉を換えて、

「法性に即して法性の見を起す、即ち是れ法性なり」と言えば、

「法性の縛」を知ることができよう。


しかし、この言葉がないことを、「あわれむべし」と書かれるのである。「

法性」は良くて、「無明」は悪いという考えが、凡見と同じであるところを嫌われるのである。


そうであるのに、「無明の縛のかさなれるをしれるは、発菩提心の種子となりぬべし」と、しばらく生かされるのである。今の「行仏」は、決してこのような「縛」に縛られないのである。


「法性の縛のあることをしらず」とは、「法性の見を起す、即ち是れ法性なり」という言葉のない所を、「しらず」と言うのである。


「無明の縛をかさぬ」とは、「即ち是れ無明なり」という言葉を「無明の縛」と言われるのである。


「法性の縛あることをしらず」とは、「法性の見を起す、即ち是れ法性なり」という言葉がないことを「しらず」と指し示すのである。


〔聞書私訳〕

/この「無明の縛」という言葉を、はっきりと知るべきである。「菩提を菩提と知見解会せん」は、良いことを「縛」と言わなければならないということはない。


しかも、「法性の縛」と「無明の縛」を比べて、「法性の縛」と言わず「無明の縛を重ぬ」などと言う。


理解できないが、つまる所、「法性」だ、「菩提」だと心の外に置く時、それがそのまま「無明」なのである。「無明」の字を付けたからには、「縛をかさぬ」というのは、もっともそのわけがあるのである。


「法性」も「菩提心」も一つと心得たからには、たとえ「無縄」といっても、「縛」の字は免れないのである。



〔『正法眼蔵』私訳〕

教家の経典学者・論典学者などの仏道を遠くで聞いた者たちでさえ、

法性に即して、法性という考えを起すのは、無明(根本的な無知)である」と言う。

(教家経師論師等の仏道を遠聞せる、なほしいはく「即於法性、起法性見、即是無明《法性に即して、法性の見を起す、即ち是れ無明なり》」。


この教家の言うことは、法性に法性という考えが起る時に、法性そのものが縛であることを言わず、その上に更に無明という別の縛を重ねる、法性そのものが縛であることを知らないのである。

(この教家のいはくは、法性に法性の見おこるに、法性の縛をいはず、さらに無明の縛をかさぬ、法性の縛あることをしらず。)


法性が縛であることを知らないのは気の毒だが、無明の縛の重なっていることを知っているのは、菩提心(悟りを求める心)をおこす種子シュウジとなるであろう。

(あはれむべしといへども、無明縛のかさなれるをしれるは、発菩提心の種子となりぬべし。)


今の行仏は、決してこのような縛に縛られないのである。

(いま行仏、かつてかくのごとくの縛に縛せられざるなり。)



                  合掌



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