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正5-5-2『第五即心是仏』 第五段② 〔ただ仏祖と仏祖だけが即心是仏してきた〕〔聞書私訳〕〔『正法眼蔵』私訳〕

 〔聞書私訳〕

/「仏百草を拈却しきたり、打失しきたる。しかあれども、丈六の金身に説似せず。」とは、「拈却」とは別に子細は無く、取ることである。「打失」は失うことである。今は、「仏百草」と言っている時に主客もなく、この「百草」を取りもせず、失うということでもない。そのわけを「説似せず」(似せて説かず)と説くのである。


/「即公案あり、見成を相待せず、敗壊を𢌞避せず。」と言う、

「公案」という事も、理解する方法はいろいろある。例えば、「公」を公オオヤケの物事として何であっても、これはどのような事だと理解する。「案」は、学者によって、先に言った「公」の物事の不審なところを調べる意味である。


このように言えば、「案」は未だ「見成」していない時のことである。今の『正法眼蔵第一』の巻名に『見成公案』と名付ける、「見成」の所に「公案」があり、「公案」の所に「見成」は現われる。これらはおおよそのことである。


今は、「即公案」と言い、格別に「見成を相待せず、敗壊を廻避せず」と言い、「見成」の道理を、具えているとも具えていないともいう言及はない。ただ「即心是仏」の「即」の字だけを取るのである。


/「一心一切法、一切法一心」(この一心が一切の法であり、一切の法がこの一心である)と言う、

「即心是仏」をこのように言われるのである。天台宗などでは、この「一心一切法、一切法一心」という事は、ただ竪(順番に段階を経て進むこと)(順番を超えて一足飛びにいくこと)の道理である。竪横は共に不可と判ずるから、この草子の説は、天台宗で廃された説のようである。


しかし、竪横を立て共に不可だと嫌うのは、「将錯就錯ショウシャクジュシャク」(錯まりをもって錯まりに就く)という事を学ばないからである。「一心一切法」をそのまま「一心一切法」と付け、「一切法一心」を「一切法一心」と付ければ、不可と説く所はない。不可と嫌われる言葉を、仏法の至極と学ぶのである。


近頃の禅僧と称する輩の見解では、「以心伝心」と言って、心を用いて心に伝えることこそが仏の本懐(本来の願い)であり、言葉を用いて言葉を伝えるのは本意ではない、それは教家(経論に準拠している家風を持つ宗派)の心だと言う。これも、「将錯就錯」を知らない輩がこのように言うのである。だから、「将錯就錯せざるゆゑに、おほく外道に零落す」とあるのである。


心を用いてこそ伝わると言わないのは、『身心学道』の巻で、「仏道は、不道フドウを擬ギするに不得フトクなり、不学を擬するに転遠テンオンなり。」〈仏道は、仏道以外で道を得ようとしても得られず、修行しなければ道とますます疎遠となる。〉と言われるのが、これである。




〔『正法眼蔵』私訳〕

 いわゆる仏祖がそういう生活をしている今こういう風にある様子は、

外道や二乗の夢にも見るところではない。

(いはゆる仏祖の保任する即心是仏は、外道二乗ゆめにも見るところにあらず。)


ただ仏祖と仏祖のみがずれがなく今こういう風にある様子を生活してきており、

聞こえる通りにあり、実践する通りにあり、実物の通りにあるのであるのである。

(唯仏祖与仏祖のみ即心是仏しきたり、究尽しきたる聞著あり、行取あり、証著あり


 今の様子〈即〉は公の事実である。

そこに二つ以上のものの見え方が出てくることはない。

敗れたり壊れたり、要するに自分が望んでいない状況を無くすとかそれに出会わないようにしようとしても、それは無理である。

(「即」公按あり、見成を相待ソウタせず、敗壊ハイエを𢌞避カイヒせず。)


 仏〈今の様子〉である森羅万象〈百草〉は仏であることを忘れて修行している。

そうであるけれども、一丈六尺の仏陀の姿を真似する必要はない。

(「仏」百草を拈ネン却しきたり、打失タシツしきたる。しかあれども、丈六の金身に説似せず。)


 是れ〈今の様子〉は三界(衆生が流転する三つの迷いの世界)のことであり、

出入りするようなものではなく、唯心というようなものでもない。

(「是」三界あり、退出にあらず、唯心にあらず。)


 心〈今の様子〉は、反応のない垣根や壁である。

それは今もなお泥まみれになって人の為に尽くすというような特別な事をせず、

今もなお自分に都合のいい作り事が出来ないようになっているのである。

(「心」牆壁ショウヘキあり、いまだ泥水せず、いまだ造作せず。)


 或いは「即〈今の様子〉は心〈今の様子〉であり是〈今の様子〉であり仏〈今の様子〉である」を参究し、

「心〈今の様子〉は即であり是であり仏である」を参究し、

「仏〈今の様子〉は即であり是であり心である」を参究し、

「即〈今の様子〉は心であり仏であり是である」を参究し、

「是〈今の様子〉は仏であり心であり即である」を参究する。

(あるひは「即心是仏」を参究し、「心即是仏」を参究し、「仏即是心」を参究し、「是仏心即」を参究す。)


このような参究は、まさに今こういう風にある様子を行ずることであり、

これを行じていつでも今の様子以外にないことを正伝するのである。

(かくのごとくの参究、まさしく即心是仏、これを挙して即心是仏に正伝するなり。)


このように正伝して今日に至ったのである。

(かくのごとく正伝して今日にいたれり。)


すなわち正伝してきた心〈今の様子〉とは、

今の様子〈一心〉が一切の在り様であり、

一切の在り様は今の様子〈一心〉ということなのである。

(いはゆる正伝しきたれる心といふは、一心一切法、一切法一心なり。)



                        合掌



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正7-6-3a『第七一顆明珠』第六段3a 原文私訳〔どうあろうが、すべてはいつもみな明珠なのである〕

  〔『正法眼蔵』原文〕   既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。 しかあればすなはち、 転不転のおもてをかへゆくににたれども、すなはち明珠なり。 まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。 明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。 既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。 たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 サムサ も、たゞしばらく小量の 見 ケン なり、さらに小量に相似 ソウジ ならしむるのみなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている)とき に 珠を与える親友 (一顆明珠である自己) がいて、 親友 (一顆明珠である自己) には必ず珠を与えるのである。 (酔酒 スイシュ の時節にたまをあたふる親友あり、 親友にはかならずたまをあたふべし。) 珠を懸けられる時は、必ず酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている) のである。 (たまをかけらるゝ時節、かならず酔酒するなり。) 既にこのようであることは、 十方のすべての世界である一個の明珠なのである。 (既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。) そうであるから、転 (迷ったり) 不転 (悟ったり) と 表面を変るように見えても、中身は明珠なのである。 (しかあればすなはち、転不転のおもてをかへゆくににたれども、 すなはち明珠なり。) まさに珠はこうであると知る、すなわち これが明珠なのである。 (まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。) 明珠にはこのように (迷っても悟ってもみな明珠だと) 知られるありさま (声色) があるのである。 (明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。) 既にこのようであるので、自分は明珠ではないと戸惑っても、 明珠ではないと疑ってはならない。 (既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。) 戸惑い疑い、あれこれうろたえ回るありさまも、 ただしばらくの小さな考えである。 さらに言えば、明珠が小さな考えに見せかけているに過ぎないのである。 (たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 ...

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