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正5-2-1『第五即心是仏』 第二段①〔外道の考え方〕

 

〔『正法眼蔵』原文〕

 外道のたぐひとなるといふは、西天竺国に外道あり、先尼センニとなづく。


かれが見処のいはくは、大道はわれらがいまの身にあり、そのていたらくは、たやすくしりぬべし。


いはゆる苦楽をわきまへ、冷暖を自知し、痛痒ツウヨウを了知す。万物にさへられず、諸境にかゝはれず。物は去来し境は生滅すれども、霊知レイチはつねにありて不変なり。


コノ霊知、ひろく周遍せり。凡聖含霊ボンショウガンレイの隔異カクイなし。そのなかに、しばらく妄法モウボウの空花クウゲありといへども、一念相応の智慧あらはれぬれば、物も亡じ、境も滅しぬれば、霊知本性ひとり了々として鎮常チンジョウなり。


たとひ身相はやぶれぬれども、霊知はやぶれずしていづるなり。


たとへば人舎ニンシャの失火にやくるに、舎主いでてさるがごとし。昭々霊々ショウショウリョウリョウとしてある、これを覚者智者の性ショウといふ。


これをほとけともいひ、さとりとも称ず。自他おなじく具足し、迷悟ともに通達せり。




〔『正法眼蔵』私訳〕

外道のたぐいとなるというのは、

西のインドの国に外道(仏道以外の教え)があり、先尼センニと名づけた。

(外道のたぐひとなるといふは、西天竺国に外道あり、先尼となづく。)


彼らの考え方では、大道は我々の今の身体の中にあり、

その在り様は容易に知ることができる。

(かれが見処のいはくは、大道はわれらがいまの身にあり、そのていたらくは、たやすくしりぬべし。)


つまり、苦楽をわきまえ、冷暖を自覚し、痛い痒いを知る。

(いはくは苦楽をわきまへ、冷暖を自知し、痛痒を了知す。)


何物にも邪魔されることがなく、諸々の外境に左右されない。

(万物にさへられず、諸境にかかはれず。)


万物は去来し外境は生滅するけれども、霊知は常にあって不変である。

(物は去来し境は生滅すれども、霊知はつねにありて不変なり。)


この霊知は、広く遍く行き渡っている。

(この霊知、ひろく周遍せり。)


凡夫・聖者・一切の生物の別がない。

(凡聖含霊の隔異なし。)


その中に、しばらく妄想の実在しない花があるとしても、一念でも真理にかなった智慧が現われれば、物もなくなり、外境も消えてしまうから、

霊知の本性だけがはっきりとして永遠に存在するのである。

(そのなかに、しばらく妄法の空花ありといへども、一念相応の智慧あらはれぬれば、物も亡じ、境も滅しぬれば、霊知本性ひとり了々として鎮常なり。)


たとえ身体は破れても、霊知は破れずに出ていくのである。

(たとひ身相はやぶれぬれども、霊知はやぶれずしていづるなり。)


たとえば、人家が火事で焼けても、

家の者はそこを出て去っていくようなものである。

(たとへば人舎ニンシャの失火にやくるに、舎主いでてさるがごとし。)


照々霊々としてある、それを覚者・智者の本性と言う。

(昭々霊々としてある、これを覚者智者の性といふ。)


これを仏とも言い、悟りとも称する。

(これをほとけともいひ、さとりとも称ず。)


これは自分にも他人にも等しく具わり、迷いにも悟りにも通達している。

(自他おなじく具足し、迷悟ともに通達せり。)




                         合掌


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