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正5-1-4『第五即心是仏』第一段④〔評釈〕「即心是仏=自分の今こういう風にある様子」ってどういうこと?


〔『正法眼蔵』原文〕

いはゆる即心の話をききて、痴人チニンおもはくは、

衆生の慮知念覚の未発菩提心ミホツボダイシンなるを、すなはち仏とすとおもへり。


これはかつて正師にあはざるによりてなり。



〔抄私訳〕

「いはゆる即心の話をききて、痴人おもわくは、衆生の慮知念覚の未発菩提心なるを、すなはち仏とすとおもへり。これはかつて正師にあはざるによりてなり」とある。

これはまた、別に子細は無く、文の通り理解すべきである。考え方が悪いのを嫌われるのである。



〔『正法眼蔵』私訳〕

この即心是仏の語を聞いて、愚かな者は、

衆生の慮知念覚(心の働き)がまだ起きていないありようを、仏のありようだと思う。

(いはゆる即心の話をききて、痴人おもわくは、衆生の慮知念覚の未発菩提心なるを、すなはち仏とすとおもへり。)


これは、今まで正しい師に会ったことがないからである。

(これはかつて正師にあはざるによりてなり。)



〔評釈〕

「即心是仏=自分の今こういう風にある様子」ってどういうこと?と疑問に思われるかもしれませんので、少し説明をしてみます。


毎日、私達は見聞きしながら生活をしています。誰もが見聞きするという事を使っていますね。そこで、実験です。柏手カシワデを一つ打ってください。


パン!いきなりその事実があります。何かしないと聞こえないとか、聞いたものが引っかかっているとか、聞いたものが残っているとか、邪魔になるとか、そんなことは一切ありませんよね。

パン!そのままで完了していますね。それ位すっきりしてると言って良いでしょう。

パン!こういう生活を私たちはしているのです。これは作り事じゃないです。これから一生懸命修行してそういう風になるというものじゃありません。そのままで、即心是仏です、今こういう風にある様子です。


「まぬかれず保任しきたれるは」ということは、片時もそこから離れた事がないほど、ちゃーんとそういう生活をしてきたという事でしょう。今もしているという事です。それが仏祖方の今こういう風にある様子〈即心是仏〉なんです。だから仏祖と何ら変わらない様子が、私たちの今の生活の中で行われているのです。


そうなんですけれど、坐っていると学んだことが頭をかすめたりするのです。と、色んな思いに変わってですね、それを扱ってしまって、示されるようにどうしてならないんだろう、どうしたら示されているようになれるんだろうと考えるようになってしまうのです。


そっちじゃありません。考える前に実現している自分の今こういう風にある様子〈即心是仏〉があるから、その実現している事実パン〈即心是仏〉に参じたらいいのです、今の事実のままに居たらいいのです。それも探しに行かないと、実現している今の事実が見つからないようこと事はないのです。それが、即心是仏ということです。



                          合掌


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