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正4-13-1 『第四身心学道』第十三段①〔生は全機現なり、死は全機現なり:生は全ての働きの現れであり、死は全ての働きの現れである〕

 

〔『正法眼蔵』本文〕

圓悟エンゴ禅師いはく、「生也全機現ショウヤゼンキゲン、死也全機現。逼塞ヒッソクタイ虚空赤心常片々」。《生は全機現なり、死は全機現なり。太虚空に逼塞し、赤心常に片々なり》


この道著ドウチャク、しづかに功夫クフウ点検すべし。《頭注:片々とは一通りいう意である》


圓悟禅師かつて恁麼インモいふといへども、なほいまだ生死の全機にあまれることをしらず。


去来を参学するに、去に生死あり、来に生死あり、生に去来あり、死に去来あり。



〔抄私訳〕

生死の沙汰を上に挙げられたことにちなんで、今、生死を説かれ、この次に圓悟の言葉を挙げられるのである。全生全死、生は生きり死は死きりと理解される。

圓悟禅師はただ、「生也全機現、死也全機現」の言葉で世に知られている。


「生死去来真実人体」の言葉で、「去来」を言った言葉がないところを、このように挙げられるのである。だからといって、圓悟の理の上にこの言葉がないわけではない。圓悟の言葉の理の響くところに、このような言葉も出てくるのである。


六祖(圓悟は臨済宗楊岐派六祖))が言い残す事もあろうと言って多くの言葉を挙げられる。これに限らず、いくらでもこのようなことはあちこちにあるのである。圓悟を下げる意と理解してはならない。


この道理は、「去に生死あり」とは、「去」の上に「生死」を説くのである。そのわけは、「去」を「生」と説き、「死」と説くからである。「来」もまたこれと同じである。またこの理を、「生」にも「去来」を説き、「死」をも「去来」と説くので相違はないのである。引っくり返したようであるが、ただ同じ理なのである。



〔『正法眼蔵』私訳〕

圓悟禅師は言う、「生は全ての働きの現れであり、死は全ての働きの現れである。大いなる虚空にいっぱい〈生は生きり、死は死きり〉になり、何ものにも覆われないありのままの今の様子が常にあるがままに現成している」と。

(圓悟エンゴ禅師いはく、「生也全機現ショウヤゼンキゲン、死也全機現。逼塞ヒッソクタイ虚空赤心片々《生も全機現なり、死も全機現なり。太虚空に逼塞し、赤心常に片々なり》。」)


この言葉を、静かに工夫し点検すべきである。

(この道著ドウチャク、しづかに功夫クフウ点検すべし。)


圓悟禅師はかつてこのように言ったとはいえ〈圓悟禅師が言ったことに不足はないけれども〉、やはりまだ変化している今の様子〈生死〉が全機(全ての働き)さえも超えていることを知らない。

(圓悟禅師かつて恁麼インモいふといへども、なほいまだ生死の全機にあまれることをしらず。)


去っていきやって来る様子〈今の活動している様子〉を学ぶと、ものが去っていく中に刻々に変化する様子〈生死〉がずうっとあり、やって来る中に刻々に変化する様子〈生死〉がずうっとある。

〈今見ているもの〉の中に去っていったりやって来たりする様子〈去来〉があり、死〈先程見たもの〉の中に去っていったりやって来たりする様子〈去来〉があるのである。

(去来を参学するに、去に生死あり、来に生死あり、生に去来あり、死に去来あり。)



                         合掌


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