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正4-4-1『第四身心学道』第四段① 〔山河大地・太陽月星これ心なり:山河大地・太陽月星の一々を心と言うのである〕

 

(『正法眼蔵』原文)

しばらく山河大地センガダイチ日月星辰ニチガツセイシン、これ心なり、

この正当恁麼時ショウトウインモジ、いかなる保任ホニンか現前する。


山河大地といふは、山河はたとへば山水なり。


大地は此処ココのみにあらず、山もおほかるべし、大須弥ダイシュミセン小須弥あり。


横に処せるあり、堅タテに処せるあり。三千界あり、無量国あり。


シキにかかるあり、空クウにかかるあり。


河もさらにおほかるべし、天河あり、地河あり、四大河あり、無熱池あり、

北俱蘆州ホックルシュウには四阿耨達池アノクダッチあり。海あり、池あり。


ヂはかならずしも土ドにあらず、土かならずしも地にあらず。


土地ドヂもあるべし、心地シンヂもあるべし、宝地ホウヂもあるべし、

万般バンパンなりといふとも、地なかるべからず、空クウを地とせる世界もあるべきなり。



〔抄私訳〕

「山河大地といふは」と言って、「山河大地」「太陽月星」のありようを重ね重ね委しく釈されており、文の通りに心得るべきである。     



〔『正法眼蔵』私訳〕

しばらく山河大地・太陽月星の一々を心と言うのである〈三界唯心〉

正にこのような時、心の外に見ることができるものは何もないのである。

(しばらく山河大地センガダイチ日月星辰ニチガツセイシン、これ心なり、この正当恁麼時ショウトウインモジ、いかなる保任ホニンか現前する。)


山河大地というのは、山河は具体的に説明すると山水である。

(山河大地といふは、山河はたとへば山水なり。) 


大地は人間界の大地ばかりではなく、山も多種多様であろう。

大須弥山ダイシュミセン(古代インドで世界の中心にある山)があり小須弥山がある。

(大地は此処のみにあらず、山もおほかるべし、大須弥小須弥もあり。)


横になっているものもあり、縦になっているものもある。

(横に処せるあり、堅タテに処せるあり。)


三千大千世界があり、無量の国土がある。

(三千界あり、無量国あり。)


四禅天(清らかな物質からなる世界:色)にかかる世界もあり、四無色物質の束縛を離脱した心のはたらきだけからなる世界:空)にかかる世界もある。

(色シキにかかるあり、空クウにかかるあり。)


河もさらに多く、天の河もあり、大地の河もあり、須弥山から流れ出る四大河もあり、その水源には清冷な炎熱の苦しみのない池があり、須弥山シュミセンの北にある寿命千年の楽土の世界には、四つの無熱の池もある。

そのほか無数の海があり、池がある。

(河もさらにおほかるべし、天河あり、地河あり、四大河あり、無熱池あり、北俱蘆州ホックルシュウには四阿耨達池アノクダッチあり。海あり、池あり。)


地は必ずしも土のみではなく、土は必ずしも地ではない。

(地ヂはかならずしも土ドにあらず、土かならずしも地にあらず。)


万物を生じる土地もあろう、万法を生じる心の地もあろう、

伽藍の宝地もあろう。

(土地ドヂもあるべし、心地シンヂもあるべし、宝地ホウヂもあるべし。)


様々な地があるとはいえ、地がなくてはならないからであり、

クウを地とする世界もあるのである。

(万般バンパンなりといふとも、地なかるべからず、空クウを地とせる世界もあるべきなり。)


〔これらは、みな心が現成する在り様を細弁されるのです。〕



                               合掌



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