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正3-14-3②『第三仏性』第十四段その3②〔風火未散は、仏が法を説き、未散風火は法が仏を説くのである〕

  

(『正法眼蔵』本文)

仏性の活計カッケイは、長沙の道を卜度ボクタクすべし。


風火未散といふ言語、しづかに功夫すべし。


未散といふは、いかなる道理かある。


風火のあつまりけるが、散ずべき期いまだしきと道取するに、

未散といふか。しかあらざるなり。


風火未散はほとけ法をとく、未散風火は法ほとけをとく。


たとゑば一音の法を説く時節到来なり。


説法の一音なる、到来の時節なり。


法は一音なり、一音の法なるゆゑに。




〔抄私訳〕

・/「仏性なりとやせん、風火なりとやせん。仏性と風火と、俱出すといふべからず、一出一不出といふべからず、風火すなはち仏性といふべからず。ゆゑに長沙は蚯蚓に有仏性といはず、蚯蚓無仏性といはず。ただ莫妄想と道取す、風火未散と道取す」とある。


これは仏性にも当たり、風火にも当たるのである。また、仏性と風火を二つ置いて「俱出す」とも言わない。また、仏性は「出」、風火は「不出」とも言わない。ただ、「風火未散」とは、仏性の道理の響くところを言われるのだと理解すべきである。風も火もともに仏性であり、仏性の上で、散・未散の言葉をつけて理解すべきである。


この道理によって、長沙は「蚯蚓キュウイン(ミミズ)は有仏性」とも言わず、「蚯蚓は無仏性」とも言わず、ただ、「莫妄想」と答えられたのである。ただ仏性は仏性であるというほどの意である。この道理が、「風火未散はほとけ法をとく、未散風火は法ほとけをとく」ほどの道理に当たるのである。




〔『正法眼蔵』私訳〕

だから、仏性の在りようは、長沙の言うところをよく参じてみよ。

(仏性の活計は、長沙の道を卜度すべし。)


風火未散という言葉を、静かに参じてみよ、

未散というのは、どんな道理があるか。

(風火未散といふ言語、しづかに功夫すべし。未散といふは、いかなる道理かある。)


風火が集まっているが、散るべき時がまだ来ていないから未散と言うのか。

長沙が言うことはそうではない。

(風火のあつまりけるが、散ずべき期いまだしきと道取するに、未散といふか。しかあらざるなり。)


風火未散は仏が法〈真理〉を説き、未散風火は法が仏を説くのである。

(風火未散はほとけ法をとく、未散風火は法ほとけをとく。)

〔これは、風火未散が仏性を説き抜いていることを言うのである。〕


例えば、風火未散と説くことが一音が法〈真理〉を説く時節の到来であり、

(たとゑば一音の法を説く時節到来なり。)

〔これは「風火未散はほとけ法をとく」という方である。〕


未散風火の法を説くことが一音であるのが、仏性が到来する時節である。

(説法の一音なる、到来の時節なり。)

〔これは「未散風火は法ほとけを説く」という方である。〕


例えば、「法は仏なり、一仏性なるが故に」というほどのことである。

〈真理〉も仏も一つの仏性であり、こちら〈仏〉と向こう〈法〉の別がないのである。

(法は一音なり、一音の法なるゆゑに。) 



                       合掌



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