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正3-14-2②『第三仏性』第十四段その2②〔妄想してはならない〕

 

〔『正法眼蔵』原文〕

師いはく、「莫妄想マクモウゾウ」。


この宗旨は、作麼生ソモサンなるべきぞ。


妄想すること莫ナカれ、といふなり。


しかあれば、両頭倶動するに妄想なし、妄想にあらずといふか、たゞ仏性は妄想なしといふか。


仏性の論におよばず、両頭の論におよばず、たゞ妄想なしと道取するか、とも参究すべし。


「動ずるはいかがせん」といふは、動ずればさらに仏性一枚をかさぬべしと道取するか、動ずれば仏性にあらざらんと道著ドウヂャクするか。


〔抄私訳〕

・/「師いはく、『莫妄想』、この宗旨は、作麼生なるべきぞ。妄想することなかれ、といふなり」とある。

この答えは、蚯蚓の斬・不斬、両頭・一段、仏性の所在等の言葉をただ凡夫の考えで理解して、みな仏祖が説くのと違うところを指して、「莫妄想」と言われたように思われる。また、この意味に理解できる。また、もしこのように言えば、取捨分別(良いものを取り悪いものを捨てて、ものの区別をつけわきまえる)の法と混合するであろうが、そうではない。


ただ仏性の姿が「莫妄想」であるのである。或いは、蚯蚓の当体(そのもの)や、「両頭俱動」が、「莫妄想」と言われるのである。決して見方が悪いのを嫌われると理解してはならない。


例えば、「諸悪莫作ショアクマクサ〈諸悪なすことなかれ:諸悪こそ不可得の莫作である〉を理解するのと違わない。つまるところ、仏性を重ねて示される言葉と理解すべきである。だから、祖師の仏法は一言半句も無駄な言葉はないのである。世間の言葉とよく似ているといっても、みな仏法の道理を表すのである。


本当によくよく考えてみると、仏性でない法、仏性でない時刻が片時もありえないからには、「妄想」を何処に置いて、棄てる・棄てないの道理があろうか、仏性が千変万化する道理である。


「しかあれば、両頭倶動するに妄想なし、妄想にあらずといふか、ただ仏性は妄想なしといふか。仏性の論におよばず、両頭の論におよばず、ただ妄想なしと道取するかとも参究すべし」とあるのは、いずれもこのような道理があろうところを、「・・・いふか、・・・いふか」とあげられるのである。この意味合いは、あちこちで多くあげられるのである。「説似一物即不中セツジイチモツソクフチュウ《一物も説似すれば即ち中アタらず》」〈言語で説明しようとしても、真意を述べることはできず、本分のことは説明した途端に的外れとなること〉の道理とみな同じである。


・「動ずるはいかがせんといふは、動ずればさらに仏性一枚をかさぬべしと道取するか」とある。「動」を「仏性」と理解するところを、しばらく「仏性一枚をかさぬ」と理解するのである。「動ずれば仏性にあらざらんと道著するか。」とは、「動」を「動」として「仏性」とは言わないという意である。それでも、「動」と「仏性」がそれぞれ別であるように聞こえるところを、何としても「動」と「仏性」が親切であると心得るためである。


                       合掌



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