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正3-13-1『第三仏性』十三段その1〔犬に仏性は有るのですか無いのですか?  趙州は言う、「有」。〕 


〔『正法眼蔵』本文〕

趙州ジョウシュウ有僧問、「狗子クシ還有仏性也無カンウブッショウヤム」。《趙州に僧有って問ふ、「狗子にまた仏性有りや無イナや」》


この問取は、この僧搆得コウトク趙州の道理なるべし。


しかあれば、仏性の道取問取ドウシュモンシュは、仏祖の家常茶飯カジョウノサハンなり。


趙州いはく、「有」。


この有の様子は、教家キョウケの論師ロンジ等の有にあらず、有部ウブの論有ロンウにあらざるなり。


すゝみて仏有ブツウを学すべし。


仏有は趙州有なり、趙州有は狗子有なり、狗子有は仏性有なり。



〔抄私訳〕

・「趙州真際大師に僧有って問ふ、狗子に還って仏性有りや無や。趙州いはく、有。」とある。


この問いの意味はどういうことか。第一段で「仏言、一切衆生、悉有仏性」〈仏は、「一切衆生は、すべてであり仏性である」と言う〉と言われたからには、改めて狗子に仏性が有るかと問うようなことはよく理解できない。


ただ、この有無の言葉は、以前すでに言われていたことである。従って「この問取は、この僧搆得趙州の道理なるべし」とあり、趙州の境地をよく理解して問うたのである。だから、解脱の理を得た僧と理解すべきなのである。


・「趙州いはく、有」。この有のありようは文の通りに理解すべきである。



〔聞書私訳〕

/趙州の答えは、狗子に仏性が有るとも無いとも言われず、狗子についての言及はなく、ただ「有」と言われたと心に留めるべきである。


/経教では、一仏の上に、昨日は定法(常住不変の教え)を説き、今日は不定法(無常の教え)を説く。この宗門では、権教ゴンキョウ(方便の教え:小乗教)と実教(真実の教え:大乗教)、邪と正を説かず、ただ一仏法である。



〔『正法眼蔵』私訳〕

趙州にある僧が問う、「犬にも仏性は有りますか、どうですか」。

(趙州に僧有って問ふ、「狗子にまた仏性有りや無や」。)


この問いは、この僧が趙州を試してみたものである。

(この問取は、この僧搆得趙州の道理なるべし。)


そうであるから、仏性について言ったり問うたりすることは、仏祖の日常茶飯事なのである。

(しかあれば、仏性の道取問取は、仏祖の家常茶飯なり。)


趙州は言う、「有」。(趙州いはく、「有」。)


この「有」のありようは、教家(禅宗以外の宗派) の学者等の慮知念覚の有ではなく、有部(あらゆるものは実在すると説く一派)が論じる三世実有の有(三世にわたって実体として存在する有)でもないのである。

(この有の様子は、教家の論師等の有にあらず、有部の論有にあらざるなり。)


さらに進んで、仏の「有」〈有無を超越している有〉を学ぶべきである。

(すすみて仏有を学すべし。)


仏の「有」は趙州の「有」であり、趙州の「有」は狗子の「有」であり、狗子の「有」は仏性の「有」なのである。

(仏有は趙州有なり、趙州有は狗子有なり、狗子有は仏性有なり。)

〔この有は、有無相対の有ではなく、法界〈存在界〉みな有仏性の有で、法界に独立の有である。〕


                        合掌

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