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正3-12-1③『第三仏性』第十二段その1③〔一切衆生にみな仏性が有るのに、どうして犬に仏性が無いのか〕

 

〔『正法眼蔵』本文〕

僧いはく、「一切衆生皆有カイウ仏性、狗子為甚麽無クシイジンモム

《一切衆生、皆仏性有り、狗子甚麽ナニとしてか無き》」。


いはゆる宗旨は、一切衆生無ならば、仏性も無なるべし、狗子も無なるべしといふ、


その宗旨作麼生ソモサン、となり。


狗子仏性、なにとして無をまつことあらん。



〔抄私訳〕

・「僧いはく、一切衆生皆仏性有り、狗子何としてか無き」と言う。この言葉は、「一切衆生に皆仏性が有る」と知ったからには、この僧が趙州に、「狗子に仏性が有りますかどうですか」と改めて問うたことは、かなり自らの語と相違するように思われる。そうであるなら、狗子も、仏性も、無も同じ言葉だと心得られる。従って、「一切衆生無ならば、仏性も無なるべし、狗子も無なるべし」と釈されるのである。


また、「狗子仏性、なにとして無をまつことあらん」とは、「狗子にまた仏性有りや無や」と、目立つようにわざとらしくと言っても栓がなく、ただ狗子は狗子、仏性は仏性であるなどという一つの姿である。これは『正法眼蔵』が説く意味合いであり、各段でこの趣向が現れる。仏性の独立、狗子の独立が、このように説くと、はっきりと現れるのである。




〔『正法眼蔵』私訳〕

僧は、「一切衆生にみな仏性が有るのに、どうして狗子(犬)に仏性が無いのでしょうか」と言う。

(僧いはく、「一切衆生皆有仏性、狗子為甚麽無《一切衆生、皆仏性有り、狗子甚麽としてか無き》」。)


その意味は、一切衆生が「無」であるなら、仏性も「無」であり、狗子も「無」であると言うことになるが、その意味はどういうことか、というのである。

(いはゆる宗旨は、一切衆生無ならば、仏性も無なるべし、狗子も無なるべしといふ、その宗旨作麼生、となり。)


すべては無であるから、狗子も仏性も、趙州が「無」と言うのを待って、はじめて「無」となるのではないのである。

(狗子仏性、なにとして無をまつことあらん。)


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