スキップしてメイン コンテンツに移動

正3-11-1②『第三仏性』第十一段その1②〔聞書私訳〕〔たとえ十二時の中にあっても、何ものにも倚りかからない〕


 〔聞書私訳〕

/「十二時中たとひ十二時中に処在せりとも、不依倚一物なり」と説くのは。「定慧等学すれば、明見仏身なり」と言うほどの言葉である。「十二時の中」では、何と「処在」すべきか、「処在」すると説くべきか、「処在」すべきではないと説くべきか。ただ「不依倚なり」と言うのである。


/「人間」界の「十二時」(二十四時間)と言い難いのは、「不依倚」と言うからであり、「人間」界の時は「依倚」である。日月の運行に依って「十二時」を立てるからである。


/「十二時」と説くのは「仏性」に当たる。「不依倚一物」と説くのは、「明見」に当たる。


/この「十二時」の「時」は、我々が心得る「時」ではなく、ただ「不依倚」と説かれるのである。「十二時」が「不依倚」であるから、「不依倚」と言えば「十二時」とは言われないのである。「仏性明見」のところに誰もいないようなものである。


/「十二時中不依倚一物」(二十四時間中、何ものにも倚りかからない)とは、「十二時中」の全面を「不依倚」と言うならば、「時中十二」〈二十四時間中の一時一時〉を「依倚」と言うべきである。「十二時中依倚不依倚」「時中十二依倚不依倚」と打ち替えたようであるが、これは一物の上に置いて理解すべきである。例えば、火は暖かである、水は冷たいというくらいのことである。


/「十二時中」はどのようなことの答えなのか。これは「定慧等学、明見仏性」を答えたのである。「諸悪莫作ショアクマクサ〈諸々の悪はなすことができない〉というほどの言葉である。「十二時中」は、「不依倚一物」であり、「莫作」の意である。


/「処在」(ありか)とは、「不依倚」の「処在」であると理解すべきである。去来の蹤跡ショウセキ(跡形)に関わらないかた、「不依倚」と説かれる。又、不の字を加えず、「依倚」(依る)と説くけれども「依らない」と理解すべきである。「如葛藤依樹」ニョカットウエジュとはいうけれども、ただ「葛藤」が「葛藤」に巻き付くと理解するようなものである。


/「不依倚一物にして始めて得てん」(何ものにも依らなくして始めて得ることができる)とは、特別な意味はなく、言い切った言葉である。


/「白銀ビャクゴン世界」というのは仏の国土である。例えば、阿弥陀仏の極楽浄土などと言うようなものである。



〔『正法眼蔵』私訳〕

黄檗が言う、「十二時中(一日二十四時間中)何ものにも倚りかからない」という根本の趣旨は、十二時中は、たとえ十二時の中にあっても、何ものにも倚りかからないということである。(黄檗いはく、「十二時中不依倚一物フエイイチモツ」といふ宗旨シュウシは、十二時中たとひ十二時中に処在せりとも、不依倚なり。)


何ものにも倚りかからないことが、十二時中であるから、仏性の明見である。(不依倚一物、これ十二時中なるがゆゑに、仏性明見なり。)


この十二時中は、どこの時節から来たとするのか、どこの国土であるとするのか。(この十二時中、いづれの時節到来なりとかせん、いづれの国土なりとかせん。)


今言う十二時は、人間の十二時なのか、ほかの世界に十二時があるのか、浄土の十二時がしばらく来たのか。(いまいふ十二時は、人間の十二時なるべきか、他那裏タナリに十二時のあるか、白銀ビャクゴン世界の十二時のしばらくきたれるか。)


たとえこの娑婆であっても、たとえ他の浄土であっても、何ものにも倚りかからないのである。(たとひ此土シドなりとも、たとひ他界なりとも、不依倚なり。)


すでに仏性の十二時中であるから、何ものにも倚りかからないのである。(すでに十二時中なり、不依倚なるべし。)

                         合掌


ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                       


     ↓               ↓

コメント

このブログの人気の投稿

尽十方界は沙門の眼である『第十五光明』15-1-1a

  明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。 〔『正法眼蔵』原文〕  大宋国湖南長沙 チョウシャ 招賢大師、上堂示衆云 ジシュウニイワク    尽十方界、是沙門眼。《尽十方界、是れ沙門の眼》    尽十方界、是沙門家常語。《尽十方界、是れ沙門の家常語》    尽十方界、是沙門全身。《尽十方界、是れ沙門の全身》    尽十方界、是自己光明。《尽十方界、是れ自己の光明》    尽十方界、在自己光明裏。《尽十方界、自己の光明裏に在り》    尽十方界、無一人不是自己。《尽十方界、一人として是れ自己にあらざる無し》  仏道の参学、かならず勤学 ゴンガク にすべし。 転疎転遠 テンソテンノン なるべからず。 これによりて光明を学得せる作家 ソカ 、まれなるものなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 大宋国湖南の長沙景岑招賢大師が、法座に上って大衆に示して言う、 (大宋国湖南長沙招賢大師、上堂示衆云) 尽十方界 (全世界) は、沙門 (修行僧) の眼 (私がなく見えるままの眼) である。 (尽十方界、是れ沙門の眼) 尽十方界は、沙門の日常の語である。 (尽十方界、是れ沙門の家常語) 尽十方界は、沙門の全身である。 (尽十方界、是れ沙門の全身) 尽十方界は、自己の光明である。 (尽十方界、是れ自己の光明) 尽十方界は、自己の光明の中にある。 (尽十方界、自己の光明裏に在り) 尽十方界は、一人として尽十方界が自己でないものはいない。 (尽十方界、一人として是れ自己にあらざる無し) 仏道の参学は、必ず熱心に光明を修行すべきである。 (仏道の参学、かならず勤学にすべし。) 光明と疎遠であってはならない。 (転疎転遠なるべからず。) 光明と疎遠であって光明を自己のものにできた 作家 (仏道に弟子を導くことができる優れた師家) は、希なものである。 (これによりて光明を学得せる作家、まれなるものなり。) 尽十方界は沙門の眼である『第十五光明』15-1-1b                    合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                                     ↓               ↓       にほんブログ村

人間の目の素晴らしい働き 番外編

  皆さんのご参考になるかもしれない動画に出会いました。こちらを何度もご覧になり、素晴らしい実感を味わってみてください。 動画: 正法眼蔵(人間の目の素晴らしい働き) 尚、ご参考までに以下文字起こしをしました。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・皆さんこんにちは、安穏寺チャンネルを ご覧いただきましてありがとうご ざいます。チャンネル名は毎回変わるかもしれませ んけれどもご容赦ください。今日はですね、我々の人間のこの目の働きを通してある、我々が気がつかないでいる素晴らしい力に ついて勉強してまいりたいと思います。  まず初めにですね、一度目を閉じてみて ください。で、ゆっくり開けます。 もう一度目を閉じます。で、目をゆっくり開け て ください。で、そこで最初に行われていること をよく観察してみてください。目というものは見る前にですね、写るという働きが先に あるんじゃないでしょうか。よくよく皆さん やってみてください。 目をまず閉じます。で、見ようとしてみてください。ぐーっと 今目を閉じてますから見えませんね。目を開けます、そうすると見るよりも先に写し出さ れるということが先にありませんか。この写し出される、写るという働きには私がありません。 自分が例えばキョロキョロあっちを 見ようとかですね、こっちを見ようとする ことは自分が自分で焦点を合わせようとしてますから、自分の意でそこに焦点を 合わせようとしてますですけれども、もう 一度目を閉じてください。目を閉じて ゆっくりと開けてみてください。見る前に写っている写し出されているということが がありませんか。 私たちの目という働き、目というものの力、働きはですね、そのこの我々の体の前にあることを、こうある角度で写し出す素晴らしい力 があります。目というレンズですね、皆さんのお持ちのカメラやスマートフォンや ムービーなどのレンズもですね、そのものをですねそのまま写し出す力があります。 写真 という言葉がありますが、真実を写すという、真実を写す本当の我々の素晴らしい働き、このマナコなん です。今のこの映像というものは今の皆さん の目がこう写し出すこの時しかないですね。この動画はもう過去のものでございますから、今私は別のところに行ってご飯とか 食べてるかもしれませんですが、今...

むしろ逆に悟りを借りるのかどうか 『第十大悟』10-4-2a

〔『正法眼蔵』原文〕  「還仮悟否 ゲンケゴヒ 《 還 カエ って悟を仮るや否や 》」。 この道をしづかに参究して、 胸襟 キョウキン にも換却すべし、 頂𩕳 チョウネイ にも換却すべし 。  近日大宋国禿子 トクス 等いはく、「悟道是本期 ゼホンゴ 《悟道是れ本期なり》 」。 かくのごとくいひていたづらに待悟す。 しかあれども、 仏祖の光明 にてらされざるがごとし。 たゞ真善知識に参取すべきを、懶惰 ランダ にして蹉過 サカ するなり。 古仏の出世にも度脱せざりぬべし。 〔『正法眼蔵』私訳〕   「 むしろ逆に悟りを借りるのかどうか 」。 この言葉を静かに親しく究め尽くして、 心の中のものとも取り換えなさい、 頭の中のものとも取り換えなさい 。 (「還仮悟否」。この道しづかに参究して、胸襟にも換却すべし、 頂𩕳 にも換却すべし。)   近頃、大宋国では、頭を剃って坊さんの格好をした連中が、 「仏道修行は道を悟ることが本来の目的だ」と言っている。 このように言って、無駄に悟りが来るのを待っている。 (近日大宋国禿子等いはく、悟道是れ本期なり。かくのごとくいひていたづらに待悟す。) そうであるけれども、 仏陀や祖師と同じような 自己の光明 に照らされないようなものである。 (しかあれども、仏祖の光明にてらされざるがごとし。) ただ真の善知識 (人を正しく導く師) について学ぶべきであるのに、 時間を無駄に過ごして 大道(自己の光明に照らされる在り様) を踏み間違えているのである。 (たゞ真善知識に参取すべきを、懶惰にして蹉過するなり。) たとえどんな仏の出生に出会っても、解脱しないであろう 。 (古仏の出世にも度脱せざりぬべし。) むしろ逆に悟りを借りるのかどうか 『第十大悟』10-4-2b                          合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                               ↓               ↓       にほんブログ村