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正3-11-4①『第三仏性』第十一段その4①〔飲み水代はしばらくおく、わらじ代は誰に還させるのか〕


〔『正法眼蔵』本文〕

 南泉いはく、「漿水銭且致ショウスイセンシャチ、草鞋銭教什麽人還ソウアイセンキョウジュウモニンケカン《漿水銭ショウスイセンは且シバラく致く、草鞋銭ソウアイセンは什麽人ジュウモニンをしてか還カエさしめん》」。


いはゆるは、「こんづのあたひはしばらくおく、草鞋のあたひはたれをしてかかへさしめん」となり。


この道取の意旨、ひさしく生々ショウジョウをつくして参究すべし。


漿水銭いかなればしばらく不管フカンなる、留心勤学リュウシンキンガクすべし。



〔抄私訳〕

・「南泉いはく、漿水銭は且く致く、草鞋銭は什麽人をしてか還さしめん」と言う。この言葉は大いに驚かされるであろう。ただ、法性だ、実相だ、仏性だなどと言えば、これは仏法のことと思われる。今の「漿水銭(飲み水代)」「草鞋銭(わらじ代)」と聞くと、堅固な世間の調度品で、何でもない普通のことのように思われる。


随って、「禅門は何でもないことを、ただ口から出任せに言うのだ。雀がチュンチュン、烏がカーカー、人が説けば「無」などと言うほどの言葉だと」と言う族ヤカラが多いのである。そうではあるが、これは正嫡ショウウチャク(正しく伝わること)の仏法を聞かず、正師に遭わない時のことである。


つまるところ、仏祖はただ法の究極を十分に明らかにするから、このように談ずる粗筋を全く知らない時に、このように言うのである。実にあわれなことである。そもそも、仏性のありようは、どのようなものであるかと十二分に功夫し参学しなければならない。


仏性に「漿水銭」「草鞋銭」は背くものか、仏性とは別々にすべきものかと、十二分に心得ると、まったく不審なことはないのである。どうして「漿水銭」「草鞋銭」は仏性の道理を離れるのか。しばらく「漿水銭」で仏性を表し、「草鞋銭」で仏性を表すと、まず心得るべきである。


・また、「いはゆるは、『こんづのあたひはしばらくおく、草鞋のあたひはたれをしてかかへさしめん』となり」。これは「しばらくおく」は、「漿水銭」は「漿水銭」に置き、「草鞋銭」はまた「草鞋銭」であるから、それを「什麽人をしてか還さしめん」とは、「漿水銭」で仏性を尽くし、「草鞋銭」の究尽する道理が、「什麽人をしてか還さしめん」という道理なのである。


「おく」と言っても、別に引き離して物を置くのではない。また「什麽人をしてか還さしめん」といって、銭を還すべき人を考えているのでもない。

「こんづのあたひはしばらくおく、草鞋のあたひはたれをしてかかへさしめん」とは、「定慧等学(定と慧を等しく学ぶこと)はしばらくおく、明見仏性(自己が仏性であることを明らかに見ること)はたれをしてか見せしめん」というくらいの道理であると心得るべきなのである。



〔『正法眼蔵』私訳〕

南泉が、「飲み水代はしばらくおく、わらじ代は誰に還させるのか」と言った。(南泉いはく、「漿水銭且致、草鞋銭教什麽人還《漿水銭は且く致く、草鞋銭は什麽人をしてか還さしめん》」。)


その言うところは、修行に携帯した多くの「濃漿コンズ(煮沸して作った携帯用の水) の代金はしばらくおくとして、修行で履きつぶした多くの草鞋ワラジの代金は誰に還させるのか」というのである。(いはゆるは、「こんづのあたひはしばらくおく、草鞋のあたひはたれをしてかかへさしめん」となり。)


飲み水代はしばらくおいておくとして、なぜわらじ代は払わなければならないのか、この趣意を幾生もかけて参究すべきである。(この道取の意旨、ひさしく生々をつくして参究すべし。)


飲み水代はなぜしばらく問題にしないのか、心を留め熱心に学ぶべきである。(漿水銭いかなればしばらく不管なる、留心勤学すべし。)


                         合掌


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