スキップしてメイン コンテンツに移動

正3-9-4『第三仏性』第九段その4〔「有仏性」と言っても「無仏性」と言っても仏法僧を謗ることになるが、言わないわけにはいかない〕

 

〔『正法眼蔵』本文〕

このゆゑに百丈ヒャクジョウいはく、「説衆生有仏性、亦謗仏法僧ヤクボウブッポウソウ。説衆生無仏性、亦謗仏法僧《衆生に仏性有りと説くも、また仏法僧を謗ず。衆生に仏性無しと説くも、また仏法僧を謗ずるなり》」。


しかあればすなはち、有仏性といひ無仏性といふ、ともに謗となる。


謗となるといふとも、道取せざるべきにはあらず。



〔抄私訳〕

・/また、「百丈いはく、衆生に仏性有りと説くも、また仏法僧を謗。衆生に仏性無しと説くも、また仏法僧を謗ずるなり」と言う。結局、この言葉は有と説くのも仏法僧を謗り、無と説くのも仏法僧を謗ることになるというように思われる。そうではあるが、「謗となるといふとも、道取せざるべきにはあらず」とは、謗ることになるとしても、言わないではおられないというのである。


・また、「且問シャモンニイ、大潙、百丈しばらくきくべし。謗はすなはちなきにあらず、仏性は説得すやいまだしや。たとひ説得せば、説著を罣礙ケイゲせん。説著セッジャクあらば聞著モンジャクと同参なるべし」とある。


これは、謗ることはしばらくの間ないわけではないが、仏性を説き得る人はいるのか、仮に説き得れば、説く人は仏性に覆われるであろう。それならば、説く人もいれば、聞く人も同参(一緒に参じる)であるはずだというのである。たとえば、「謗」の言葉を受けて、仮に謗ることがあっても、これは「また仏法僧を謗ず」と説き得る百丈も仏性である。


それならば、この説くことはみな仏性に打ち取られてしまったからには、説くことも仏性、聞くことも仏性である。そうであるから、今の「謗」の語は、決して物をおいて良い悪いと言うことではない。そうであるから、この「謗」も仏性であり、誹謗ヒボウ(そしる)の意味ではない道理が明らかである。


〔聞書私訳〕

/百丈の「説衆生有仏性、亦謗仏法僧」《衆生に仏性有りと説くもまた仏法僧を謗ずるなり》の「謗」は、「大海不宿死屍」(大海に死屍は宿らず)くらいに理解すべきである。《「説衆生亦謗仏法僧 」は「 知而故犯チニコポン(知ってことさらに犯す)にあたる。》


この「謗」は、世間で言う謗ではない。大海に死屍(死骸)はないけれども、大海には「不宿死屍」と言うようなことである。また、「仏法僧」とは、仏性と言うのと同じである。


/「説衆生有仏性、亦謗仏法僧」という「亦」の字は、「時節若至仏性現前」(時節若し至れば仏性現前)の「若」の字などと同じような意味合いであると、教家(禅門以外の宗派)でも多く注釈をつけるのである。


「衆生有仏性」と「衆生無仏性」が共に「亦謗仏法僧」とあるので、仏性は具えている法と理解し、「有」と言ってもあたらず、「無」と言ってもあたらないから、「亦謗」と言うと理解するであろうが、この「亦」は仏性を具えている法というのではない。「有」を指して仏性と言い、「無」をも指して仏性と言う意味合いを「亦」と言うのである。


第二段の「時節若至ジセツニャクシ(時節が若し至れば)の「若」も、時が至るのか至らないのかを疑って、「若し」と言うのではない。至っても至らなくても、共に仏性である「若し」なのである。また、「謗となるといふとも、道取せざるべきにはあらず」とは、そしる「謗」ではない。「謗」も「説」も「聞」も、みな仏性なのである。


/「謗仏法僧」の「謗」は、「諸悪莫作」(諸悪なすことなし)と説くのは「亦謗仏法僧」である。これは「謗」といっても世間で考えるような「謗」ではなく、有無ともに道理であるというほどの「謗」である。謗(そしる)・讃(ほめる)の「謗」に習ってはならない。


/この「謗」の字は、「信」という字か「讃」という字に取替えても理解できる。「将錯就錯ショウシャクジュシャク錯を将って錯に就く) ほどの意である。「仏をもって仏につく(将仏就仏)」と言うほどのことである。この「謗」は、共に「説得」(説き得る)と使うことができる。共にとは、「説衆生有仏性」と「説衆生無仏性」の言葉が、「謗」と言われることを、共にと言う。


/「迷中亦迷」メイチュウユウメイ(迷いの中でまた迷う)とも言う、坐禅すれば仏を坐り殺すというほどのことである。


/「三界唯一心」と説くからには、三界有りと説いても、三界無しと説いても「謗」となるが、ただ一心であるからには、世間で用いる「謗」であってはならない。自由自在に使うべきである。この「謗」(ボウ)の字を決して恐れてはならないのである。


/たとえば、「謗」とは、「あやまりをもってあやまりにつく」(将錯就錯ショシャクジュシャクという意味である。「あやまりをもってあやまりにつく」とは、仏は即ち仏という意味である。だから、「有」も「謗」と使い、「無」も「謗」と使うのである。


/「仏性は衆生なり」と言ってはならない。衆生は即ち衆生であり、仏性はまた仏性であるからである。仮に「謗」と言っても、捨てるべき「謗」ではない。「謗」の言葉が、「仏性」を明らかにするからである。


/この「衆生に仏性有りと説くもまた仏法僧を謗ず」の言葉は、さらによくよく考えて見るべきである。「謗」ということは、例えば、仏を何ともしないなどというほどの「謗」である。仏の悟りと等しくなってしまえば、仏と言ってもはるかに上位と思われないので、何ともしないわけである。また、坐禅すれば殺仏(仏になりきること)と使うこともあり、これほどの「謗」と理解すべきである。また、「謗」の字を「有」「無」の字に取替て、このように言うこともできよう。



〔『正法眼蔵』私訳〕

このために、百丈は、「衆生に仏性が有ると説くのも、また仏法僧を謗ソシる。(このゆゑに百丈いはく、「説衆生有仏性、亦謗仏法僧《衆生に仏性有りとと説く、また仏法僧を謗ず》。)


衆生は無仏性であると説くのも、また仏法僧を謗ることになる」と言うのである。(説衆生無仏性、亦謗仏法僧《衆生に仏性無しと説く、また仏法僧を謗ずるなり》」)。


そうだとすれば、「有仏性」と言っても「無仏性」と言っても、どちらも仏法僧を謗ることになる。(しかあればすなはち、有仏性といひ無仏性といふ、ともに謗となる。)


謗ることになっても、言わないわけにはいかないのである。(謗となるといふとも、道取せざるべきにはあらず。)


                             合掌


ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                       


     ↓               ↓

コメント

このブログの人気の投稿

尽十方界は沙門の眼である『第十五光明』15-1-1a

  明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。 〔『正法眼蔵』原文〕  大宋国湖南長沙 チョウシャ 招賢大師、上堂示衆云 ジシュウニイワク    尽十方界、是沙門眼。《尽十方界、是れ沙門の眼》    尽十方界、是沙門家常語。《尽十方界、是れ沙門の家常語》    尽十方界、是沙門全身。《尽十方界、是れ沙門の全身》    尽十方界、是自己光明。《尽十方界、是れ自己の光明》    尽十方界、在自己光明裏。《尽十方界、自己の光明裏に在り》    尽十方界、無一人不是自己。《尽十方界、一人として是れ自己にあらざる無し》  仏道の参学、かならず勤学 ゴンガク にすべし。 転疎転遠 テンソテンノン なるべからず。 これによりて光明を学得せる作家 ソカ 、まれなるものなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 大宋国湖南の長沙景岑招賢大師が、法座に上って大衆に示して言う、 (大宋国湖南長沙招賢大師、上堂示衆云) 尽十方界 (全世界) は、沙門 (修行僧) の眼 (私がなく見えるままの眼) である。 (尽十方界、是れ沙門の眼) 尽十方界は、沙門の日常の語である。 (尽十方界、是れ沙門の家常語) 尽十方界は、沙門の全身である。 (尽十方界、是れ沙門の全身) 尽十方界は、自己の光明である。 (尽十方界、是れ自己の光明) 尽十方界は、自己の光明の中にある。 (尽十方界、自己の光明裏に在り) 尽十方界は、一人として尽十方界が自己でないものはいない。 (尽十方界、一人として是れ自己にあらざる無し) 仏道の参学は、必ず熱心に光明を修行すべきである。 (仏道の参学、かならず勤学にすべし。) 光明と疎遠であってはならない。 (転疎転遠なるべからず。) 光明と疎遠であって光明を自己のものにできた 作家 (仏道に弟子を導くことができる優れた師家) は、希なものである。 (これによりて光明を学得せる作家、まれなるものなり。) 尽十方界は沙門の眼である『第十五光明』15-1-1b                    合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                                     ↓               ↓       にほんブログ村

人間の目の素晴らしい働き 番外編

  皆さんのご参考になるかもしれない動画に出会いました。こちらを何度もご覧になり、素晴らしい実感を味わってみてください。 動画: 正法眼蔵(人間の目の素晴らしい働き) 尚、ご参考までに以下文字起こしをしました。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・皆さんこんにちは、安穏寺チャンネルを ご覧いただきましてありがとうご ざいます。チャンネル名は毎回変わるかもしれませ んけれどもご容赦ください。今日はですね、我々の人間のこの目の働きを通してある、我々が気がつかないでいる素晴らしい力に ついて勉強してまいりたいと思います。  まず初めにですね、一度目を閉じてみて ください。で、ゆっくり開けます。 もう一度目を閉じます。で、目をゆっくり開け て ください。で、そこで最初に行われていること をよく観察してみてください。目というものは見る前にですね、写るという働きが先に あるんじゃないでしょうか。よくよく皆さん やってみてください。 目をまず閉じます。で、見ようとしてみてください。ぐーっと 今目を閉じてますから見えませんね。目を開けます、そうすると見るよりも先に写し出さ れるということが先にありませんか。この写し出される、写るという働きには私がありません。 自分が例えばキョロキョロあっちを 見ようとかですね、こっちを見ようとする ことは自分が自分で焦点を合わせようとしてますから、自分の意でそこに焦点を 合わせようとしてますですけれども、もう 一度目を閉じてください。目を閉じて ゆっくりと開けてみてください。見る前に写っている写し出されているということが がありませんか。 私たちの目という働き、目というものの力、働きはですね、そのこの我々の体の前にあることを、こうある角度で写し出す素晴らしい力 があります。目というレンズですね、皆さんのお持ちのカメラやスマートフォンや ムービーなどのレンズもですね、そのものをですねそのまま写し出す力があります。 写真 という言葉がありますが、真実を写すという、真実を写す本当の我々の素晴らしい働き、このマナコなん です。今のこの映像というものは今の皆さん の目がこう写し出すこの時しかないですね。この動画はもう過去のものでございますから、今私は別のところに行ってご飯とか 食べてるかもしれませんですが、今...

むしろ逆に悟りを借りるのかどうか 『第十大悟』10-4-2a

〔『正法眼蔵』原文〕  「還仮悟否 ゲンケゴヒ 《 還 カエ って悟を仮るや否や 》」。 この道をしづかに参究して、 胸襟 キョウキン にも換却すべし、 頂𩕳 チョウネイ にも換却すべし 。  近日大宋国禿子 トクス 等いはく、「悟道是本期 ゼホンゴ 《悟道是れ本期なり》 」。 かくのごとくいひていたづらに待悟す。 しかあれども、 仏祖の光明 にてらされざるがごとし。 たゞ真善知識に参取すべきを、懶惰 ランダ にして蹉過 サカ するなり。 古仏の出世にも度脱せざりぬべし。 〔『正法眼蔵』私訳〕   「 むしろ逆に悟りを借りるのかどうか 」。 この言葉を静かに親しく究め尽くして、 心の中のものとも取り換えなさい、 頭の中のものとも取り換えなさい 。 (「還仮悟否」。この道しづかに参究して、胸襟にも換却すべし、 頂𩕳 にも換却すべし。)   近頃、大宋国では、頭を剃って坊さんの格好をした連中が、 「仏道修行は道を悟ることが本来の目的だ」と言っている。 このように言って、無駄に悟りが来るのを待っている。 (近日大宋国禿子等いはく、悟道是れ本期なり。かくのごとくいひていたづらに待悟す。) そうであるけれども、 仏陀や祖師と同じような 自己の光明 に照らされないようなものである。 (しかあれども、仏祖の光明にてらされざるがごとし。) ただ真の善知識 (人を正しく導く師) について学ぶべきであるのに、 時間を無駄に過ごして 大道(自己の光明に照らされる在り様) を踏み間違えているのである。 (たゞ真善知識に参取すべきを、懶惰にして蹉過するなり。) たとえどんな仏の出生に出会っても、解脱しないであろう 。 (古仏の出世にも度脱せざりぬべし。) むしろ逆に悟りを借りるのかどうか 『第十大悟』10-4-2b                          合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                               ↓               ↓       にほんブログ村