スキップしてメイン コンテンツに移動

正3-10-1③『第三仏性』第十段その1③〔仏は、妨げのない智慧を車として、因果を載せて運んで行くのである〕

 

〔『正法眼蔵』本文〕

是れ車と作して因果を運載ウンサイす。


生に処して生に留められず、死に処して死に礙へられず。


五陰ゴオンに処して門の開くるが如し。


五陰に礙へられず、去住自由キョウジュウジユウにして、出入無難シュツニュウブナンなり。



〔抄私訳〕

・また、「車と作して因果を運載す」と言う。「車と作す」といっても、物を載せて運ぶ普通の車ではなく、三車(羊車・鹿車・牛車)の内の大白牛車ダイビャクゴシャ(仏の乗り物)であり、これは「仏性」を「車と作す」のである。


「運載」も、運び入れたり運び出すということではない。生も全機(全分のはたらき) の生、死も全機の死であるから、「生に留められず」、「死に礙えられず」ということは言うまでもないのである。


・「五陰に処す」も「門の開くるが如し」と言う。五蘊ウンは色(身体)(感受作用)(概念や表象)(意志)(認識作用)である。これも仏性の上の五蘊である。「門の開くるが如し」とは、「妨げられない」ということである。


・「去住自由にして、出入無難なり」と言う。いかにもその趣旨がある。仏性の上では、自由な出入りに難は無く、本当に何の煩ワズラいもないのである。


〔聞書私訳〕

/「車と作して因果を運載す」とは、「因果」を説く言葉である。「因果」は「運載」の意味であり、「運載」は運ぶ意味である。今、「因果」を、仏法ではどのように運ぶのであろうか。東より西に運び、過去より未来に運ぶのではない。諸法(一切のもの)が実相(そのまま真実相)であるように、大乗の因を運べば、大乗の果となるように、ただこの上で運ぶと説かれるのである。


「因果を運載す」の言葉を、ただ無駄に物を運ぶと心得れば、上の「上々智」の言葉も、「仏道立此人」の言葉も、「仏有仏性」の言葉も、「導師」の言葉も、本意に背き、道理にそれるのである。


運ぶということは、今に始まったことではない。『現成公案』の巻で、「自己を運びて万法を修証する」(自己を運んであらゆる存在を修証する)ということも、万法(あらゆるもの)がすなわち自己である道理なのである。


下に対する「上々智」ではない。「仏道立此人」〈もとから仏道によって生きている人〉というのも、今仏道を建立する人というのではないのである。「導師」というのも、誰を導くのか。教化する者と教化される者を仏道ではおかない。「導師」もこれほどに心得るべきなのである。教化する者と教化される者を立てるときがあっても、以前教化されなかった者が、今教化されるとは心得ないのである。


/「生に処して生に留められず、死に処して死に礙へられず」とは、我々の生死ではなく、仏のことなのである。そもそも、仏の「去住」「出入」は、どのようであろうか、我々と同じではないのである。


「去」(行く)も不変の意味であり、「住」(留まる)も行に対する住ではないから、「自由」と使うのであり、「出入」もまた同様なのである。


/「生にも死にも、留められず、或いは礙えられず」と説く。「去住自由にして、出入無難なり」というのも、仏果(仏の果報)のことであるから、我々の取り分はなく、ただ謗の言葉を聞いたようなものである。


我といって自己と理解すると、生死にも留められ妨げられ、出入も難しいのである。だから全機現〈全分のはたらきの現成〉の「生死」でなければならないのである。


/これは「去来」ではない「生死」であるから、「煩悩即菩提」という言葉と、「煩悩として断ずべきものもなく、菩提として現すべきものもない」という言葉は同じなのである。そのわけは、煩悩を置くところがなく、菩提もまた置くところがないから、等しいのである。


/「使得」とは、生であり、「全機現」〈全分のはたらきの現成〉と心得ることを言うのである。我と言って自己と理解すると、「生死」に留められ妨げられのである。「出入」も難がある。全機現の「生死」なのである。


/「五陰に処して門の開くるが如し。五陰に礙えられず」と言う。「五陰」とは、我々の身ではない。「門の開くる」とは、妨げ留められないのである。「礙えられず」とは、上の「無礙」「自由」などと説かれる意味合いである。


/「去住自由にして、出入無難なり」と言う。これは文の通りである。以前の意味と同じであり、「自由」「全出」「全入」である。



〔『正法眼蔵』私訳〕

仏は、妨げのない智慧を車として、因果を載せて運んで行くのである。(是れ車と作して因果を運載す。)〔つまり、六波羅蜜ロクハラミツを身に及ぶだけ、布施・持戒・・・何でもずんずん勤めて行くのである。〕


仏は、生にあっても生に引き留められず、死にあっても死に妨げられないのである。(生に処して生に留められず、死に処して死に礙へられず。)


仏は、五蘊ゴウン(色受想行識)の身心シンジンであっても、五蘊の門がからりと開いている解脱の境界キョウガイなのである。(五陰に処して門の開くるが如し。)


仏は、五蘊に妨げられず、行くも留まるも自由であり、出るも入るも難しいことは無いのである。(五陰に礙へられず、去住自由にして、出入無難なり。)



                            合掌


ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                       


     ↓               ↓

コメント

このブログの人気の投稿

むしろ逆に悟りを借りるのかどうか 『第十大悟』10-4-2a

〔『正法眼蔵』原文〕  「還仮悟否 ゲンケゴヒ 《 還 カエ って悟を仮るや否や 》」。 この道をしづかに参究して、 胸襟 キョウキン にも換却すべし、 頂𩕳 チョウネイ にも換却すべし 。  近日大宋国禿子 トクス 等いはく、「悟道是本期 ゼホンゴ 《悟道是れ本期なり》 」。 かくのごとくいひていたづらに待悟す。 しかあれども、 仏祖の光明 にてらされざるがごとし。 たゞ真善知識に参取すべきを、懶惰 ランダ にして蹉過 サカ するなり。 古仏の出世にも度脱せざりぬべし。 〔『正法眼蔵』私訳〕   「 むしろ逆に悟りを借りるのかどうか 」。 この言葉を静かに親しく究め尽くして、 心の中のものとも取り換えなさい、 頭の中のものとも取り換えなさい 。 (「還仮悟否」。この道しづかに参究して、胸襟にも換却すべし、 頂𩕳 にも換却すべし。)   近頃、大宋国では、頭を剃って坊さんの格好をした連中が、 「仏道修行は道を悟ることが本来の目的だ」と言っている。 このように言って、無駄に悟りが来るのを待っている。 (近日大宋国禿子等いはく、悟道是れ本期なり。かくのごとくいひていたづらに待悟す。) そうであるけれども、 仏陀や祖師と同じような 自己の光明 に照らされないようなものである。 (しかあれども、仏祖の光明にてらされざるがごとし。) ただ真の善知識 (人を正しく導く師) について学ぶべきであるのに、 時間を無駄に過ごして 大道(自己の光明に照らされる在り様) を踏み間違えているのである。 (たゞ真善知識に参取すべきを、懶惰にして蹉過するなり。) たとえどんな仏の出生に出会っても、解脱しないであろう 。 (古仏の出世にも度脱せざりぬべし。) むしろ逆に悟りを借りるのかどうか 『第十大悟』10-4-2b                          合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                               ↓               ↓       にほんブログ村

正9-3-4a『第九古仏心』第三段その4a〔牆壁瓦礫が人間に造らせたのか〕

〔『正法眼蔵』原文〕   しかあれば、「作麼生是牆壁瓦礫 ソモサンカコレショウヘキガリャク 」 と問取すべし、道取すべし。 答話せんには、「古仏心」と答取すべし。 かくのごとく保任してのちに、さらに参究すべし。 いはゆる牆壁はいかなるべきぞ。 なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段 ギョウダン をか具足せると、 審細に参究すべし。 造作 ゾウサ より牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか。 造作か、造作にあらざるか。 有情なりとやせん、無情なりや。 現前すや、不現前なりや。 かくのごとく功夫参学して、たとひ天上人間にもあれ、 此土他界の出現なりとも、古仏心は牆壁瓦礫なり、 さらに一塵の出頭して染汚 ゼンナ する、いまだあらざるなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕     そうであるから、「どのようなものが牆壁瓦礫か」 と問うべきであり、言うべきである。 (しかあれば、「作麼生是牆壁瓦礫」と問取すべし、道取すべし。)   答えるには、「古仏心」と答えるべきである。 (答話せんには、「古仏心」と答取すべし。) 〔これで古仏心と牆壁瓦礫が少しも違わないということが、 いよいよ明らかになるのである。〕 このように保ち続けたうえで、さらに参究すべきである。 (かくのごとく保任してのちに、さらに参究すべし。)   言うところの牆壁瓦礫とは、どのようなものか。 (いはゆる牆壁はいかなるべきぞ。)   何を牆壁瓦礫と言うのか、今どのような形をしているのかと、 詳しく細やかに参究すべきである。 (なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段をか具足せると、審細に参究すべし。) 人間が造ることで牆壁瓦礫を出現させたのか、 牆壁瓦礫が人間に造らせたのか。 (造作より牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか。) 人間が造るのか、人間が造るのではないのか。 (造作か、造作にあらざるか。) 有情だとするのか、無情だとするのか。 (有情なりとやせん、無情なりや。)   現前しているのか、現前していないのか。 (現前すや、不現前なりや。) このように参学して、たとえ天上界や人間界であっても、 現世や来世や出現しても、古仏心は牆壁瓦礫であり、 一つの塵が出現して、古仏心が牆壁瓦礫であるという事実を 染め汚すことは、いまだないのである。 (かくのごとく功夫参学して、たとひ天上人間にもあれ...

坐禅は身心の今の様子のままにただ親しくいるだけである『第十一坐禅儀』11-1-1a

正法眼蔵第十一 坐禅儀 ザゼンギ 〔『正法眼蔵』原文〕   参禅は坐禅なり 。  坐禅は静処 ジョウショ よろし。坐蓐 ザニク あつくしくべし。 風烟 フウエン をいらしむる事なかれ、雨露 ウロ をもらしむることなかれ、 容身 ヨウシン の地を護持すべし。 かつて金剛 コンゴウ のうへに坐し、盤石 バンジャク のうへに坐する蹤跡 ショウセキ あり、 かれらみな草をあつくしきて坐せしなり。 坐処あきらかなるべし、昼夜くらからざれ。 冬暖夏涼 トウダンカリョウ をその術とせり。  諸縁を放捨し、万事 バンジ を休息すべし。 善也不思量 ゼンヤフシリョウ なり、悪也不思量なり。 心意識にあらず、念想観にあらず。 作仏 サブツ を図 ズ する事なかれ 、坐臥 ザガ を脱落すべし。  飲食 オンジキ を節量すべし、光陰を護惜 ゴシャク すべし。 頭燃 ズネン をはらふがごとく坐禅をこのむべし。 黄梅山 オウバイサン の五祖、ことなるいとなみなし、唯務 ユイム 坐禅のみなり。  坐禅のとき、袈裟 ケサ をかくべし、蒲団 フトン をしくべし。 蒲団は全跏 ゼンカ にしくにはあらず、跏趺 カフ のなかばよりはうしろにしくなり。 しかあれば、累足 ルイソク のしたは坐蓐 ザニク にあたれり、 脊骨 セキコツ のしたは蒲団にてあるなり。 これ仏々祖々の坐禅のとき坐する法なり 。 〔『正法眼蔵』私訳〕 正しい坐禅の仕方 (坐禅儀)   禅 (自己の真相:今の様子) に参ずる (親密にいる) のは、 公案を拈ることではなく 坐禅することである 。 (参禅は坐禅なり。)  坐禅は静かな処が適切である。 (坐禅は静処 ジョウショ よろし。) 座布団を厚く敷きなさい。 (坐蓐 ザニク あつくしくべし。) 風や霞が入らないようにし、雨や露が漏れてこないようにして、 身を容 イ れる場所を清潔に保ちなさい。 (風烟をいらしむる事なかれ、雨露をもらしむることなかれ、 容身の地を護持すべし。) かつて金剛座 (金剛石でできた坐処) の上に坐したり、 或いは大きい岩の上に坐した事跡があるが、 彼らはみな草を厚く敷いて坐ったのである。 (かつて金剛 コンゴウ のうへに坐し、盤石 バンジャク のうへに坐する蹤跡 ショウセキ あり、 かれらみな草をあつくしき...