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正3-10-1①『第三仏性』第十段その1①〔仏は仏道によって生きている人であり、この仏としての存在が仏性である〕


〔『正法眼蔵』本文〕

百丈山ヒャクジョウザン大智禅師、衆に示していわく、「仏は是れ最上乗なり、是れ上上智なり」。


是れ仏道立此人リッシニンなり、是れ仏有ブツウ仏性ブッショウなり、是れ導師なり。



〔抄私訳〕

・仏果(仏の果報)の上には様々な徳が十分に備わっていて、決して欠けたところはない。どんな意義でも、どんな徳でも備わっている。したがって、僧衆に示す言葉に「仏は是れ最上乗なり、是れ上上智なり。是れ仏道立此人なり、是れ仏有仏性なり」などと、様々な仏徳を挙げられるのである。


その中に、「是れ仏有仏性なり」の言葉があることによって、仏性の手掛かりとなるので、引用して載せられたのである。しかし、この言葉は普通ではなく、「是れ仏有仏性なり」というのも理解し難い。そうではあるが、仏性の上の道理は、どこでどのように説いても支障がなく、また、道理と相違しないのである。



〔聞書私訳〕

/この『仏性』の巻では、仏性の意義を説くのに各段があるけれども、それぞれ勝劣は無く、ただ同じことを述べるのである。たとえ前の言葉が替ったといっても、違いは無いのである。例えば、仏に十種の称号がおありになり、それぞれいわれがあるが、勝劣や善悪が有るのではないのである。


/「仏はこれ最上乗」とは、五乗《人・天・声聞・縁覚・菩薩の五乗》と比べて仏が勝れているから、このように言うのである。「最上乗」によって、「因果を使得シトクす、福智自由なり」や、「車と作して因果を運載す」を理解するときは、それらは当然衆生がなす業ワザではないのである。


「上々智」とは、上のうえに上を立てることであるが、法文の理を述べるには言葉がそれでも足らないことがある。五乗の上の「上乗」は下に対している面があるので、「上上」と言うことがある。また、上と名づけることも、下に対して名付けることもある。無上の言葉には、無上に対する無下も表れるのである。「最上乗」も「上上智」も、大きいことであり、大大超ということもある。


/「仏道立此人」〈仏道によって生きている人〉とは、本分人(本来の面目の人)である。「仏有」〈仏としての存在〉も「仏性」であり、ただ仏の名であり、本分(本来の面目)のことである。


/「仏有ということは、この時初めて言われたように思われるけれども、「悉有」のときすでに言われていたのである。第一段に、「一切衆生、悉有仏性」とある。悉有仏性〈すべての存在は仏性である〉が仏有仏性〈仏としての存在は仏性である〉に他ならないというのである。



〔『正法眼蔵』私訳〕

百丈懷海ヒャクジョウエカイ禅師が、僧衆に説いて言うには、「仏は最上の乗りものの人であり、これはすなわち、並びなき智慧の人なのである。(百丈山大智禅師、衆に示していわく、「仏は是れ最上乗なり、是れ上上智なり」。)


仏は仏道によって生きている人であり、この仏としての存在が仏性であり、仏は導師なのである。(是れ仏道立此人リッシニンなり、是れ仏有ブツウ仏性ブッショウなり、是れ導師なり。)



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