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『正法眼蔵』番外編 〔未だ見ぬ次世代のあなたへ〕 

 

新年に当たりまして、なぜ『正法眼蔵』読解に挑んでいるのかにつきまして少々述べさせていただきたいと思います。


今日、和暦令和六年、西暦2024年1月5日、銀河系島宇宙の太陽系地球に生存している約80億人の人間社会は、混迷が深まっているようです。戦火は絶えることなく第三次世界大戦勃発が危惧され、飢餓人口が増え、難民が増え、人権抑圧が増え、精神を病む人が増え、自死者が増え、人間の欲望がとめどなく肥大化し、自然破壊が深刻化し、災害が激甚化し、分断と対立抗争が深刻化し、少数者による富の寡占化と多数者の支配が進んでいるようです。


一方、今朝近くの緑に囲まれた小さな公園を歩くと、小鳥たちがさえずり、保育園児たちが保育士さんの声がけ体操を全身心で笑顔いっぱいに楽しんでいます!太陽に愛され、オゾン層に守られ、地球環境に育まれ、親と社会に愛育されている生命のはじけるような喜びが、宇宙にまで輝きわたっているかのようです!宇宙も喜んでいるようです、あたかもこれこそ宇宙の存在理由だと言わんばかりに!


にもかかわらず、人間社会は混迷の度を深めています。その根底にあるのは、個人のエゴ、集団のエゴ、国家のエゴなど、エゴとエゴの衝突ではないでしょうか。


人間の幸福のために発達してきた科学ですが、一方で混迷を助長している面も見受けられます。また、現代の哲学・宗教が、混迷を緩和する力を発揮できているかと言えば、甚だ疑問です。科学と哲学・宗教が手を携えて混迷を緩和する道を見出し、共に人間社会に働きかける必要があると痛感しています。


私見ですが、原子爆弾投下のような甚大な災難にあいながらも他者を恨まず前を向いて日々新たに今を生ききっている、日本人の根底にある縄文以来1万年の精神生活が言語化された『正法眼蔵』は、現代科学と最も親和性の高い宗教書・哲学書ではないかと考えています。例えば、


私とは何か?(脳科学:一切は脳内現象であり、私という実体はない

苦しみとは何か?(医学:緩和ケアー)

物質とは何か?(量子力学:人間の精神作用が物質の現れ方に影響を与える)

宇宙とは何か?(宇宙論:宇宙は多次元だ)

存在とは何か?時間とは何か?(ハイデッガーの『存在と時間』)

人間の実存とは何か?(サルトルの実存主義哲学)

社会とは何か?(レヴィ・ストロースの構造主義)


これらの問いの一つ一つを現代科学の知見と『正法眼蔵』の深い叡智をすり合わせつつ、深く洞察し思惟し言語化し体系化していけば、人間社会の混迷を緩和する日本発の新しい哲学が創出できるのではないかと考えています。


しかし、残念ながら私自身にはそれに挑む能力はなく、時間も残されていません。でも、その前段として原点の『正法眼蔵』を現代語訳して次世代の人に遺すことはできます。

こういう思いからこのブログを始めました。皆さま、引き続きご支援のほどよろしくお願いします。



未だ見ぬ次世代のあなたへ

無限の可能性を秘めた次世代のあなたにお願いがあります。この『正法眼蔵』現代語訳を読み、1万年以上にわたる日本人の精神生活が結晶した道元の深い宗教哲学を学び、混迷する人間社会に新しい道を示し得る、人類の未来にインスピレーションを与える日本発の新しい哲学を創りだしてもらえないでしょうか。お願いします。

                羽田 徹眞 合掌

                  


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