スキップしてメイン コンテンツに移動

正3-8-1②『第三仏性』第八段その1②〔心はみな衆生であり、衆生はみな有仏性なのである〕


〔『正法眼蔵』本文〕

いま仏道にいふ一切衆生は、有心者みな衆生なり、心是衆生なるがゆへに。


無心者おなじく衆生なるべし、衆生是心なるがゆへに。


しかあれば、心シンみなこれ衆生なり、衆生みなこれ有仏性なり。


草木国土これ心なり、心なるがゆゑに衆生なり、衆生なるがゆゑに有仏性なり。


日月星辰ニチガツセイシンこれ心なり、心なるがゆゑに衆生なり、衆生なるがゆゑに有仏性なり。


国師の道取する有仏性、それかくのごとし。


もしかくのごとくにあらずは、仏道に道取する有仏性にあらざるなり。



〔抄私訳〕

だから、「衆生みなこれ有仏性なり。草木国土これ心なり、心なるがゆゑに衆生なり、衆生なるがゆゑに有仏性なり。日月星辰ニチガツセイシンこれ心なり、心なるがゆゑに衆生なり、衆生なるがゆゑに有仏性なり」とある。


「心」も「衆生」も「草木国土」も、みな「仏性」である道理が理解できるのである。「国師の道取する有仏性、それかくのごとし」とあるのは、いかにもそう言われる理由があるのである。


ただ普通に考えるように、一切衆生に仏性が有ると決して理解してはならない。「一切衆生」も仏性、「有仏性」も有の仏性である。この有は決して有無相対の意味ではないのである。


〔聞書私訳〕

/「有仏性」という「有」は、有無の見方を離れ、無に対する有ではない。他の宗門では、義を立ててどうして有仏性なのかと言うであろうが、今はただ、直に「有仏性」という意なので、教義ではない。


闡提センダイといっで仏性がない衆生などというのも、しばらくの義である。二乗も成仏できないといっても、法華のときは成仏を許されるというような有無の意味ではない。ただ衆生は「有仏性」というのである。《仏性を具えるところを有仏性と言い、具えないところを無仏性というのではない。》



〔『正法眼蔵』私訳〕

今、仏道で言う「一切の衆生」は、心の有る者はみな衆生である、心は衆生と不離一体であるから。(いま仏道にいふ一切衆生は、有心者みな衆生なり、心是衆生なるがゆへに。)


心の無い者も同じく衆生である、衆生は心と不離一体であるから。(無心者おなじく衆生なるべし、衆生是心なるがゆへに。)


そうであるから、心はみな衆生であり、衆生はみな有仏性なのである。(しかあれば、心みなこれ衆生なり、衆生みなこれ有仏性なり。)


草木国土は心であり、心であるから衆生であり、衆生であるから有仏性である。(草木国土これ心なり、心なるがゆへに衆生なり、衆生なるがゆへに有仏性なり。)


太陽月星座も心であり、心であるから衆生であり、衆生であるから有仏性なのである。(日月星辰ニチガツセイシンこれ心なり、心なるがゆへに衆生なり、衆生なるがゆへに有仏性なり。)


国師の言う有仏性とは、このようなものである。(国師の道取する有仏性、それかくのごとし。)


もしこのようでなければ、仏道で言う有仏性ではないのである。(もしかくのごとくにあらずば、仏道に道取する有仏性にあらざるなり。)


今国師が言う宗旨は、「一切衆生は有仏性である」ということだけである。(いま国師の道取する宗旨は、「一切衆生有仏性」のみなり。)


まったく衆生でないものは、有仏性ではないのである。(さらに衆生にあらざらんは、有仏性にあらざるべし。)

                              合掌


ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。合掌                       


     ↓               ↓

コメント

このブログの人気の投稿

むしろ逆に悟りを借りるのかどうか 『第十大悟』10-4-2a

〔『正法眼蔵』原文〕  「還仮悟否 ゲンケゴヒ 《 還 カエ って悟を仮るや否や 》」。 この道をしづかに参究して、 胸襟 キョウキン にも換却すべし、 頂𩕳 チョウネイ にも換却すべし 。  近日大宋国禿子 トクス 等いはく、「悟道是本期 ゼホンゴ 《悟道是れ本期なり》 」。 かくのごとくいひていたづらに待悟す。 しかあれども、 仏祖の光明 にてらされざるがごとし。 たゞ真善知識に参取すべきを、懶惰 ランダ にして蹉過 サカ するなり。 古仏の出世にも度脱せざりぬべし。 〔『正法眼蔵』私訳〕   「 むしろ逆に悟りを借りるのかどうか 」。 この言葉を静かに親しく究め尽くして、 心の中のものとも取り換えなさい、 頭の中のものとも取り換えなさい 。 (「還仮悟否」。この道しづかに参究して、胸襟にも換却すべし、 頂𩕳 にも換却すべし。)   近頃、大宋国では、頭を剃って坊さんの格好をした連中が、 「仏道修行は道を悟ることが本来の目的だ」と言っている。 このように言って、無駄に悟りが来るのを待っている。 (近日大宋国禿子等いはく、悟道是れ本期なり。かくのごとくいひていたづらに待悟す。) そうであるけれども、 仏陀や祖師と同じような 自己の光明 に照らされないようなものである。 (しかあれども、仏祖の光明にてらされざるがごとし。) ただ真の善知識 (人を正しく導く師) について学ぶべきであるのに、 時間を無駄に過ごして 大道(自己の光明に照らされる在り様) を踏み間違えているのである。 (たゞ真善知識に参取すべきを、懶惰にして蹉過するなり。) たとえどんな仏の出生に出会っても、解脱しないであろう 。 (古仏の出世にも度脱せざりぬべし。) むしろ逆に悟りを借りるのかどうか 『第十大悟』10-4-2b                          合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                               ↓               ↓       にほんブログ村

正9-3-4a『第九古仏心』第三段その4a〔牆壁瓦礫が人間に造らせたのか〕

〔『正法眼蔵』原文〕   しかあれば、「作麼生是牆壁瓦礫 ソモサンカコレショウヘキガリャク 」 と問取すべし、道取すべし。 答話せんには、「古仏心」と答取すべし。 かくのごとく保任してのちに、さらに参究すべし。 いはゆる牆壁はいかなるべきぞ。 なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段 ギョウダン をか具足せると、 審細に参究すべし。 造作 ゾウサ より牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか。 造作か、造作にあらざるか。 有情なりとやせん、無情なりや。 現前すや、不現前なりや。 かくのごとく功夫参学して、たとひ天上人間にもあれ、 此土他界の出現なりとも、古仏心は牆壁瓦礫なり、 さらに一塵の出頭して染汚 ゼンナ する、いまだあらざるなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕     そうであるから、「どのようなものが牆壁瓦礫か」 と問うべきであり、言うべきである。 (しかあれば、「作麼生是牆壁瓦礫」と問取すべし、道取すべし。)   答えるには、「古仏心」と答えるべきである。 (答話せんには、「古仏心」と答取すべし。) 〔これで古仏心と牆壁瓦礫が少しも違わないということが、 いよいよ明らかになるのである。〕 このように保ち続けたうえで、さらに参究すべきである。 (かくのごとく保任してのちに、さらに参究すべし。)   言うところの牆壁瓦礫とは、どのようなものか。 (いはゆる牆壁はいかなるべきぞ。)   何を牆壁瓦礫と言うのか、今どのような形をしているのかと、 詳しく細やかに参究すべきである。 (なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段をか具足せると、審細に参究すべし。) 人間が造ることで牆壁瓦礫を出現させたのか、 牆壁瓦礫が人間に造らせたのか。 (造作より牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか。) 人間が造るのか、人間が造るのではないのか。 (造作か、造作にあらざるか。) 有情だとするのか、無情だとするのか。 (有情なりとやせん、無情なりや。)   現前しているのか、現前していないのか。 (現前すや、不現前なりや。) このように参学して、たとえ天上界や人間界であっても、 現世や来世や出現しても、古仏心は牆壁瓦礫であり、 一つの塵が出現して、古仏心が牆壁瓦礫であるという事実を 染め汚すことは、いまだないのである。 (かくのごとく功夫参学して、たとひ天上人間にもあれ...

坐禅は身心の今の様子のままにただ親しくいるだけである『第十一坐禅儀』11-1-1a

正法眼蔵第十一 坐禅儀 ザゼンギ 〔『正法眼蔵』原文〕   参禅は坐禅なり 。  坐禅は静処 ジョウショ よろし。坐蓐 ザニク あつくしくべし。 風烟 フウエン をいらしむる事なかれ、雨露 ウロ をもらしむることなかれ、 容身 ヨウシン の地を護持すべし。 かつて金剛 コンゴウ のうへに坐し、盤石 バンジャク のうへに坐する蹤跡 ショウセキ あり、 かれらみな草をあつくしきて坐せしなり。 坐処あきらかなるべし、昼夜くらからざれ。 冬暖夏涼 トウダンカリョウ をその術とせり。  諸縁を放捨し、万事 バンジ を休息すべし。 善也不思量 ゼンヤフシリョウ なり、悪也不思量なり。 心意識にあらず、念想観にあらず。 作仏 サブツ を図 ズ する事なかれ 、坐臥 ザガ を脱落すべし。  飲食 オンジキ を節量すべし、光陰を護惜 ゴシャク すべし。 頭燃 ズネン をはらふがごとく坐禅をこのむべし。 黄梅山 オウバイサン の五祖、ことなるいとなみなし、唯務 ユイム 坐禅のみなり。  坐禅のとき、袈裟 ケサ をかくべし、蒲団 フトン をしくべし。 蒲団は全跏 ゼンカ にしくにはあらず、跏趺 カフ のなかばよりはうしろにしくなり。 しかあれば、累足 ルイソク のしたは坐蓐 ザニク にあたれり、 脊骨 セキコツ のしたは蒲団にてあるなり。 これ仏々祖々の坐禅のとき坐する法なり 。 〔『正法眼蔵』私訳〕 正しい坐禅の仕方 (坐禅儀)   禅 (自己の真相:今の様子) に参ずる (親密にいる) のは、 公案を拈ることではなく 坐禅することである 。 (参禅は坐禅なり。)  坐禅は静かな処が適切である。 (坐禅は静処 ジョウショ よろし。) 座布団を厚く敷きなさい。 (坐蓐 ザニク あつくしくべし。) 風や霞が入らないようにし、雨や露が漏れてこないようにして、 身を容 イ れる場所を清潔に保ちなさい。 (風烟をいらしむる事なかれ、雨露をもらしむることなかれ、 容身の地を護持すべし。) かつて金剛座 (金剛石でできた坐処) の上に坐したり、 或いは大きい岩の上に坐した事跡があるが、 彼らはみな草を厚く敷いて坐ったのである。 (かつて金剛 コンゴウ のうへに坐し、盤石 バンジャク のうへに坐する蹤跡 ショウセキ あり、 かれらみな草をあつくしき...