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正3-7-3④『第三仏性』第七段その3④〔それまで龍樹や提婆のように「身の現れは仏性である」と言った者はいなかった〕

 

〔『正法眼蔵』本文〕

しかあるに、龍樹リュウジュ・提婆ダイバ師資シシよりのち、三国の諸方にある前代後代、ままに仏学する人物、いまだ龍樹・提婆のごとく道取せず。


いくばくの経師キョウジ論師ロンジ等か、仏祖の道を蹉過サカする。


大宋国むかしよりこの因縁インネンを画ガせんとするに、身に画し心に画し、空クウに画し、壁に画することあたはず、いたづらに筆頭に画するに、法座上に如鏡ニョキョウなる一輪相を図ズして、いま竜樹の身現円月相とせり。


すでに数百歳スヒャクサイの霜華ソウカも開落して、人眼ニンゲンの金屑キンセツをなさんとすれども、あやまるといふ人なし。


あはれむべし、万事の蹉陀サダたることかくのごときなる。



〔抄私訳〕

・また、「大宋国むかしよりこの因縁を画せんとするに、身に画し心に画し、空に画し、壁に画することあたはず、いたづらに筆頭に画するに、法座上に如鏡なる一輪相を図して、いま龍樹の身現円月相とせり」と言う。


これは、この円月の相を描こうとするのに、身でも心でも描き、空クウにも壁にもどうして描かないのか。ただ筆先で、「法座上に如鏡なる一輪相を図して、いま龍樹の身現円月相と」することを斥けられるのである。以下は文の通り。


「金屑キンセツ」とは金のすり屑である。金は得難く貴重な宝物であるが、すり屑を目に入れると堪え難いものとなることのたとえである。この次もまた文の通り。何度も円月相ということについて、餅の画一枚を描くことを斥けられるのである。この次は文の通り。


〔聞書私訳〕

/「身に画し心に画し、空に画し、壁に画することあたはず、いたづらに筆頭に画す」と言う。筆先だけで描かないで、このように様々に描くべきであるというのである。



〔『正法眼蔵』私訳〕

そうであるのに、龍樹・提婆の師弟以来、インド・シナ・日本の三国の諸方の古今において、心にまかせて仏道を学ぶ者の内で、まだ龍樹や提婆のように「身の現れは仏性である」と言った者はいない。(しかあるに、龍樹リュウジュ・提婆ダイバ師資シシよりのち、三国の諸方にある前代後代、ままに仏学する人物、いまだ龍樹・提婆のごとく道取せず。)


どれほどの経典学者や論典学者などが、仏祖の道を踏み誤ったことか。(いくばくの経師キョウジ論師ロンジ等か、仏祖の道を蹉過サカする。)


大宋国では昔からこの因縁(龍樹が身に円月相を現した故事)を描こうとするのに、身〈正身端坐の身〉に描き心〈三界唯心の心〉に描き、空〈色即是空の空〉に描き壁〈心である障壁瓦礫の壁〉に描くこともできないで、徒に筆先で描いて、法座の上に鏡のような一つの円い形を描き、これを龍樹の「身現円月相」としている。(大宋国むかしよりこの因縁インネンを画ガせんとするに、身に画し心に画し、空クウに画し、壁に画することあたはず、いたづらに筆頭に画するに、法座上に如鏡ニョキョウなる一輪相を図ズして、いま竜樹の身現円月相とせり。)


すでに数百年の歳月を経過しているのに、眼に入った黄金のくずのようなものを、間違っていると言う人はいない。(すでに数百歳スヒャクサイの霜華ソウカも開落して、人眼ニンゲンの金屑キンセツをなさんとすれども、あやまるといふ人なし。)


哀れむべきことだ、万事につけこのように誤っているのである。(あはれむべし、万事の蹉陀サダたることかくのごときなる。)


                  合掌


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