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正3-7-3③『第三仏性』第七段その3③〔量り知れないほど多いすべての我々の日常生活は、仏性であるこの身の現れのその時その時の様子である〕

 

〔『正法眼蔵』本文〕

しかあれば、身現の説仏性なる、虚明コメイなり、廓然カクネンなり。


説仏性の身現なる、以表諸仏体なり。


いづれの一仏二仏か、この以表を仏体せざらん。


仏体は身現なり、身現なる仏性あり。


四大五蘊と道取し会取エシュする仏量祖量ブツリョウソリョウも、かへりて身現の造次ゾウジなり。


すでに諸仏体といふ、蘊処界インジョカイのかくのごとくなるなり。


一切の功徳、この功徳なり。仏功徳はこの身現の究尽グウジンし、囊活ノウカツするなり。


一切無量無辺の功徳の往来は、この身現の一造次イチゾウジなり。



〔抄私訳〕

・「しかあれば、身現の説仏性なる、虚明なり、廓然なり。説仏性の身現なる、以表諸仏体なり。いづれの一仏二仏か、この以表を仏体せざらん」と言う。

これは「身現の説仏性なる、虚明なり、廓然なり」と「説仏性の身現なる、以表諸仏体なり」とは、ただ同じ道理である。「身現の説仏性」と「説仏性の身現」と言葉が前後しただけである。つまり、「身現」も、「説仏性」も、「以表諸仏体」も、「虚明」も、「廓然」の道理も、ただ一物である。色々を指して、仏性の理を表すと心得るべきである。


「 いづれの一仏二仏か、この以表を仏体せざらん」とは、この「以表」が即ち「諸仏体」である。だから、「いづれの仏」もこの「以表」を「仏体」としていると言うのである。


・また、「仏体は身現なり、身現なる仏性あり。四大五蘊と道取し会取する仏量祖量も、かへりて身現の造次なり。すでに諸仏体といふ、蘊処界のかくのごとくなるなり。」と言う。文の通りである。


ただ結局、「四大五蘊と道取し会取する仏量祖量も」、みな「身現」であり、「蘊処界」〈五蘊十二処十八界の認識界〉等も諸仏の体であると理解すべきである。この次の文は特に子細はない、文の通り理解すべきである。



〔『正法眼蔵』私訳〕

そうであるから、身の現れが仏性〈向かうと必ずきちっとその通りあること〉であることを説くことは、とらわれるものがなく、カラリと開けて明らかな様子である。(しかあれば、身現の説仏性なる、虚明コメイなり、廓然カクネンなり。)


仏性を説くことが身の現れであることは、仏性〈向かうと必ずきちっとその通りあること〉によって諸仏の体を表すことである。(説仏性の身現なる、以表諸仏体なり。)


どの仏もどの仏も、仏性を表すことを仏の体としないものはない。(いづれの一仏二仏か、この以表を仏体せざらん。) 


仏の体は身の現れであり、身の現れである仏性がある。(仏体は身現なり、身現なる仏性あり。)


仏性はこの身心〈四大五蘊〉だと説き理解する仏祖の力量も、逆に身の現れのその時その時の様子である。(四大五蘊と道取し会取エシュする仏量祖量ブツリョウソリョウも、かへりて身現の造次ゾウジなり。)


すでに諸仏の体と言うのであるから、この世界〈蘊処界〉がそのようなのである。(すでに諸仏体といふ、蘊処界インジョカイのかくのごとくなるなり。)


一切の功徳は、この身の現れの功徳である。(一切の功徳、この功徳なり。)


仏の功徳は、この身の現れが究め尽くし、残らず包み込むのである。(仏功徳はこの身現の究尽グウジンし、囊活ノウカツするなり。)


量り知れないほど多いすべての我々の日常生活〈功徳の往来〉は、仏性であるこの身の現れのその時その時の様子である。(一切無量無辺の功徳の往来は、この身現の一造次イチゾウジなり。)


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