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正3-7-2②『第三仏性』第七段その2②〔いかなる処にも麤ソ(あらい)という円月相、細という円月相、迷・悟、衆生・仏という円月相が在る〕

 

〔『正法眼蔵』本文〕

いづれのところのいづれのときか、非身の他現ならん。


まさにしるべし、このとき尊者は高座せるのみなり。


身現の儀は、いまのたれ人も坐せるがごとくありしなり。


この身、これ円月相現なり。


身現は方円にあらず、有無に非ず、隠顕にあらず、八万四千蘊ウンにあらず、ただ身現なり。


円月相といふ、這裏シャリ是甚麼シモ処在、説細説麤ソ月《這裏是れ甚麼ナンの処在ぞ、細と説き、麤と説く月》なり。



〔抄私訳〕

・「いづれのところのいづれのときか、非身の他現ならん」と云々。この身のほかに変化身があるのではないから、龍樹の欠けるところのない道理は明らかである。


・また、「このとき尊者は高座せるのみなり」、云々。普通に思っている円月相ではない証拠は明らかである。


・また、「身現は方円にあらず、有無に非ず、隠顕にあらず、八万四千蘊にあらず、ただ身現なり」と云々。文の通りであり、別に子細はない。


・「円月相といふ、這裏シャリ是れ甚麼ナンの処在ぞ、細と説き、麤ソと説く月なり」との文。これは古い言葉である。祖師が月をめでる時このように言ったのである。つまるところ、この意味合いは、月と説く時は世界の内も外もみな月であり、月でないものは一つもないということである。


だから、「這裏是れ甚麼の処在ぞ、細と説き、麤と説く月なり」とは、細やかなのも月であり、粗っぽいのも月であり、月でない処はない道理を説く言葉である。円月相の意味もこれと同じである。


〔聞書私訳〕

/「いづれのときか、非身の他現ならん」とは、龍樹自身の身を変えないで「円月相」となる理由を説くのである。「他現」他が現れるとは、この「円月相」を指すのである。


龍樹が「身現円月相」〈身に円月相を現す〉して集会の衆に仏性を見させると心得るときは、決して龍樹は「我慢〈我を立てておごり高ぶること心〉を除くこと」はない。また、龍樹の「身現円月相」を離れた所で見る聴衆がいれば、聴衆も「我慢を除くこと」はない。龍樹も聴衆も、共に「身現円月相」であるときに「我慢を除く」のである。いずれにしても、龍樹の「円相」は一般に思っている円相ではないのである。


/「身現円月相」を尊者に行わせ、説法を聴衆にうけさせるけれども、説法・尊者・聴衆が、それぞれ別であり、能所(主客)があるのではないからである。「身現円月相」といえば悉く「身現円月相」であり、説法といえば悉く説法であり、あらゆる世界が説法なのである。


/今の説法は「目に未だ見ざる所」と心得るべきである。このように心得るのが転機〈はたらきを転じること〉である。凡夫の見方を転じるからである。


/「這裏シャリ是れ甚麼ナンの処在ぞ、細と説き、麤ソと説く月なり」とは、ほうきを捧げて、これはどんな月かと説くのと同じ意である。「円月相」のみを問わない意である。身を「円月相」と言うのもこれほどのことである。



〔『正法眼蔵』私訳〕

どこのどんな時に、この身と違った別の姿が現われることがあろう。(いづれのところのいづれのときか、非身の他現ならん。)


はっきりと知るといい、この時、尊者は高座に端坐していただけである。(まさにしるべし。このとき尊者は高座せるのみなり。)


身に現れる様子は、今の誰もが坐禅しているようなものであったのである。(身現の儀は、いまのたれ人も坐せるがごとくありしなり。)


我々もこの身が、欠けるところなく余るところのない円月相の現れなのである。(この身、これ円月相現なり。)


四角や丸い形の化身を現したのではなく、有ったり無かったりしたのでもなく、隠れたり顕れたりしたのでもなく、無数のものの集まりでもなく、ただ尊者の身に円月相を現したのである。(身現は方円にあらず、有無に非ず、隠顕にあらず、八万四千蘊ウンにあらず、ただ身現なり。)


円月相と言う、いかなる処にも麤ソ(あらい)という円月相、細という円月相、迷・悟、衆生・仏という円月相が在るのである。(円月相といふ、這裏シャリ是れ甚麼ナンの処在ぞ、細と説き、麤ソと説く月なり。)



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