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正3-7-2⑤『第三仏性』第七段その2⑤〔龍樹尊者の後継ぎ伽那提婆尊者は、はっきりと満月の相を識り、円月の相を識り、身の現れを識り、諸仏の性を識り、諸仏の体を識った〕


 〔『正法眼蔵』本文〕

尊者の嫡嗣チャクシ伽那提婆尊者カナダイバソンジャ、あきらかに満月相を「識此シキシ」し、円月相を識此し、身現を識此し、諸仏性を識此し、諸仏体を識此せり。


入室瀉缾ニッシツシャビョウの衆たとひおほしといへども、提婆と斉肩セイケンならざるべし。


提婆は半座の尊ソンなり、衆会シュウエの導師なり、全座の分座なり。


正法眼蔵無上大法を正伝ショウデンせること、霊山リョウセンに摩訶迦葉マカカショウ尊者の座元ザゲンなりしがごとし。


龍樹未廻心ミカイシンのさき、外道ゲドウの法にありしときの弟子おほかりしかども、みな謝遣シャケンしきたれり。


龍樹すでに仏祖となれりしときは、ひとり提婆を附法フホウの正嫡ショウチャクとして、大法眼蔵を正伝ショウデンす。


これ無上仏道の単伝なり。


しかあるに、僭偽センギの邪群ままに自称すらく、「われも龍樹大士の法嗣ホウシなり」。


論をつくり義をあつむる、おほく龍樹の手をかれり。


龍樹の造ゾウにあらず、むかしすてられし群徒の、人天ニンデンを惑乱するなり。


仏弟子はひとすじに、提婆の所伝にあらざらんは、龍樹の道ドウにあらずとしるべきなり。


これ正信得及ショウシントクギュウなり。しかあるに、偽なりとしりながら稟受ヒンジュするものおほかり。


謗大般若ボウダイハンニャの衆生の愚蒙グモウ、あはれみかなしむべし。



〔抄私訳〕

・また、「全座の分座」とは、霊鷲山で摩訶迦葉が釈尊に法座に上がるように請われて、相い並んで座られたときのことである。以下は文の通りである。


〔聞書私訳〕

/「半座の尊なり」とは、座を分けると言う、法を伝えることを座を分けると言うのである。だから「全座」であり、師と弟子の分ほどのことである。


/「全座の分座」とは、龍樹の皮肉骨髄(全身心)を提婆が得たことである。



〔『正法眼蔵』私訳〕

龍樹尊者の後継ぎ伽那提婆尊者は、はっきりと満月の相を識り、円月の相を識り、身の現れを識り、諸仏の性を識り、諸仏の体を識った。(尊者の嫡嗣伽那提婆尊者、あきらかに満月相を「識此」し、円月相を識此し、身現を識此し、諸仏性を識此し、諸仏体を識此せり。)


師の室に入ることを許され、瓶から瓶に水を瀉ウツすように残らず法が伝わった弟子がたとえ多いといっても、提婆と肩を並べるほどの者はいなかった。(入室瀉缾の衆たとひおほしといへども、提婆と斉肩ならざるべし。)


提婆は師の座の半分を許された尊い方であり、大衆の導師であり、師と同格の座を与えられた方である。(提婆は半座の尊ソンなり、衆会シュウエの導師なり、全座の分座なり。)


提婆が正法眼蔵(仏法の真髄)である無上の大法を龍樹から正しく伝えられたことは、霊鷲山(釈尊が説法された聖地)で摩訶迦葉尊者が衆中の第一座であったのと同じである。正法眼蔵無上大法を正伝せること、霊山に摩訶迦葉尊者の座元なりしがごとし。


龍樹が仏道に帰依する前、外道の教えを信奉していたときの弟子は多かったが、みな暇を出してきた。竜樹未廻心のさき、外道の法にありしときの弟子おほかりしかども、みな謝遣しきたれり。


のちに龍樹が仏祖となってからは、一人提婆を法を伝える正統な後継ぎとして、大法の正法眼蔵を正しく伝えたのである。竜樹すでに仏祖となれりしときは、ひとり提婆を附法の正嫡として、大法眼蔵を正伝す。


これが無上の仏道の単伝である。これ無上仏道の単伝なり。


ところが、分を越えて偽イツワりの身分を称する邪な連中が、勝手に「我々も龍樹菩薩の法を継ぐ者である」と自称する。(しかあるに、僭偽の邪群ままに自称すらく、「われも竜樹大士の法嗣なり」。)


論書を作り釈義を集めて、多く龍樹の著作と詐称しているが、もちろん龍樹の著作ではなく、昔捨てられた連中が、人間界や天上界を惑わしているのである。(論をつくり義をあつむる、おほく竜樹の手をかれり。竜樹の造にあらず、むかしすてられし群徒の、人天を惑乱するなり。)


仏弟子は一筋に、提婆が伝えたものでなければ、龍樹の言ったことではないと知らなければならない。(仏弟子はひとすじに、提婆の所伝にあらざらんは、竜樹の道ドウにあらずとしるべきなり。)


これが正しく信じる者だけが仏道に到達することができるということである。ところが、偽物だと知りながら受ける者が多い。(これ正信得及なり。しかあるに、偽なりしとしりながら稟受するものおほかり。)


偉大な般若の智慧をそしるこのような衆生の愚かさは、憐れみ悲しむべきものである。(謗大般若の衆生の愚妄、あはれみかなしむべし。)


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