スキップしてメイン コンテンツに移動

正3-7-2①『第三仏性』第七段その2①〔「身に円月相を現す」とは、我々のこの身が、欠ける所なく余る所ない円月相であるということである〕


 

〔『正法眼蔵』本文〕

しばらく尊者の道著ドウシチャクする偈ゲを聞取モンシュすべし、いはゆる「身現円月相、以表諸仏体」なり。 


すでに「諸仏体」を「以表」しきたれる「身現」なるがゆえに「円月相」なり。


しかあれば、一切の長短方円、この身現に学習すべし。


身と現とに転疎なるは、円月相にくらきのみにあらず、諸仏体にあらざるなり。


愚者おもはく、尊者かりに化身ケシンを現ぜるを円月相といふとおもふは、仏道を相承ソウジョウせざる儻類トウルイの邪念なり。



〔抄私訳〕

・「身現円月相、以表諸仏体なり。すでに諸仏体を以表しきたれる身現なるがゆえに円月相なり」(「身に円月の相を現し、よって諸仏の体を表す」である。すでに諸仏の体を仏性によって表してきた身現であるから、円月相なのである)と言う。


「身現円月相」と言えば、円く鏡のような身を現されたように理解するが、そうではない。ただ尊者の身が欠けるところなく、際限が無いところを「円月相」と説くのである。


「以表諸仏体」の「以表」 とは、本を置いてその姿に似ていることを、一般に「以表」 と思いがちだが、これはそういうことではない。「諸仏の体」を「以表」と名付けたのである。そのまま龍樹が龍樹を「以表」するとも理解することができる。また、龍樹が「諸の体」を「以表」するときは、龍樹は隠れ、「諸仏体」が龍樹を「以表」するときは、「諸仏体」は身を隠す、とも心得ることができる。


・また、「しかあれば、一切の長短方円、この身現に学習すべし。」と言う。本当に、「長短方円」の言葉にとらわれて、或いは長く、或いは短く、或いは円に、或いは方形などと言う凡人の情を止めて、この「円月相」の円を心得るように学ぶべきであるというのである。


「身と現とに転疎なるは、円月相にくらき」という道理は明らかである。また「愚者おもはくは」と言って、解釈されるお言葉は、文の通りである。


〔聞書私訳〕

/「身現円月相、以表諸仏体」とは、「身現」によって「以って諸仏の体を表」したので、「悉有は仏性」という意味である。仏性でない衆生はない。この「身現」は、龍樹が現れることと理解してはならず、仏性が現れることである。だから、第一段の「一切の衆生はすべて仏性である」という道理に符合するのである。


/「身現」は「説法」である。そうであるけれども、「説法」を「無其形ムゴギョウ(決まった形は無い)と言っても、「身現」のことを、「無其形」とは言わず、「一切の長短方円、この身現に学習すべし」と言う。円ではない仏性を説く時、満月輪の如しと説き、「円月相」と説く。このとき、円を解脱するのである。




〔『正法眼蔵』私訳〕

しばらく龍樹尊者が説いている詩偈シゲを聞いてみよう。今言う「身に円月相を現し、それによって諸仏の体を表す」である。(しばらく尊者の道著する偈を聞取すべし、いはゆる「身現円月相、以表諸仏体」なり。)


すでに諸仏体を仏性によって表わしてきた身の現れであるから、円月相である。(すでに「諸仏体」を「以表」しきたれる「身現」なるがゆえに「円月相」なり。)

〔龍樹が化身して諸仏の体を表したのではない。坐禅している龍樹の身の現れが円月相である。〕


だから、一切の長短方円は、この身の現れから学ぶべきである。(しかあれば、一切の長短方円、この身現に学習すべし。)〔長短方円はみな円月相である。〕


身と諸仏体の現れが同じであることに極めて疎遠であるのは、円月相にくらいだけでなく、諸仏体ではないのである。(身と現とに転疎なるは、円月相にくらいだけでなく、諸仏体にあらざるなり。)


愚かな者が、龍樹尊者が仮に化身を現したのを円月相と言うと思うのは、仏道を正しく受け継いでいない者たちの邪見である。(愚者おもはく、尊者かりに化身を現ぜるを円月相といふとおもふは、仏道を相承せざる党類の邪念なり。)

〔身に円月相を現すとは、龍樹が坐禅をしている様子である。我々のこの身が、欠ける所なく余る所ない円月相なのである。〕


*注:〔 〕内は訳者の補足。


                     合掌


ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。合掌                       


     ↓               ↓

コメント

このブログの人気の投稿

むしろ逆に悟りを借りるのかどうか 『第十大悟』10-4-2a

〔『正法眼蔵』原文〕  「還仮悟否 ゲンケゴヒ 《 還 カエ って悟を仮るや否や 》」。 この道をしづかに参究して、 胸襟 キョウキン にも換却すべし、 頂𩕳 チョウネイ にも換却すべし 。  近日大宋国禿子 トクス 等いはく、「悟道是本期 ゼホンゴ 《悟道是れ本期なり》 」。 かくのごとくいひていたづらに待悟す。 しかあれども、 仏祖の光明 にてらされざるがごとし。 たゞ真善知識に参取すべきを、懶惰 ランダ にして蹉過 サカ するなり。 古仏の出世にも度脱せざりぬべし。 〔『正法眼蔵』私訳〕   「 むしろ逆に悟りを借りるのかどうか 」。 この言葉を静かに親しく究め尽くして、 心の中のものとも取り換えなさい、 頭の中のものとも取り換えなさい 。 (「還仮悟否」。この道しづかに参究して、胸襟にも換却すべし、 頂𩕳 にも換却すべし。)   近頃、大宋国では、頭を剃って坊さんの格好をした連中が、 「仏道修行は道を悟ることが本来の目的だ」と言っている。 このように言って、無駄に悟りが来るのを待っている。 (近日大宋国禿子等いはく、悟道是れ本期なり。かくのごとくいひていたづらに待悟す。) そうであるけれども、 仏陀や祖師と同じような 自己の光明 に照らされないようなものである。 (しかあれども、仏祖の光明にてらされざるがごとし。) ただ真の善知識 (人を正しく導く師) について学ぶべきであるのに、 時間を無駄に過ごして 大道(自己の光明に照らされる在り様) を踏み間違えているのである。 (たゞ真善知識に参取すべきを、懶惰にして蹉過するなり。) たとえどんな仏の出生に出会っても、解脱しないであろう 。 (古仏の出世にも度脱せざりぬべし。) むしろ逆に悟りを借りるのかどうか 『第十大悟』10-4-2b                          合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                               ↓               ↓       にほんブログ村

坐禅は身心の今の様子のままにただ親しくいるだけである『第十一坐禅儀』11-1-1a

正法眼蔵第十一 坐禅儀 ザゼンギ 〔『正法眼蔵』原文〕   参禅は坐禅なり 。  坐禅は静処 ジョウショ よろし。坐蓐 ザニク あつくしくべし。 風烟 フウエン をいらしむる事なかれ、雨露 ウロ をもらしむることなかれ、 容身 ヨウシン の地を護持すべし。 かつて金剛 コンゴウ のうへに坐し、盤石 バンジャク のうへに坐する蹤跡 ショウセキ あり、 かれらみな草をあつくしきて坐せしなり。 坐処あきらかなるべし、昼夜くらからざれ。 冬暖夏涼 トウダンカリョウ をその術とせり。  諸縁を放捨し、万事 バンジ を休息すべし。 善也不思量 ゼンヤフシリョウ なり、悪也不思量なり。 心意識にあらず、念想観にあらず。 作仏 サブツ を図 ズ する事なかれ 、坐臥 ザガ を脱落すべし。  飲食 オンジキ を節量すべし、光陰を護惜 ゴシャク すべし。 頭燃 ズネン をはらふがごとく坐禅をこのむべし。 黄梅山 オウバイサン の五祖、ことなるいとなみなし、唯務 ユイム 坐禅のみなり。  坐禅のとき、袈裟 ケサ をかくべし、蒲団 フトン をしくべし。 蒲団は全跏 ゼンカ にしくにはあらず、跏趺 カフ のなかばよりはうしろにしくなり。 しかあれば、累足 ルイソク のしたは坐蓐 ザニク にあたれり、 脊骨 セキコツ のしたは蒲団にてあるなり。 これ仏々祖々の坐禅のとき坐する法なり 。 〔『正法眼蔵』私訳〕 正しい坐禅の仕方 (坐禅儀)   禅 (自己の真相:今の様子) に参ずる (親密にいる) のは、 公案を拈ることではなく 坐禅することである 。 (参禅は坐禅なり。)  坐禅は静かな処が適切である。 (坐禅は静処 ジョウショ よろし。) 座布団を厚く敷きなさい。 (坐蓐 ザニク あつくしくべし。) 風や霞が入らないようにし、雨や露が漏れてこないようにして、 身を容 イ れる場所を清潔に保ちなさい。 (風烟をいらしむる事なかれ、雨露をもらしむることなかれ、 容身の地を護持すべし。) かつて金剛座 (金剛石でできた坐処) の上に坐したり、 或いは大きい岩の上に坐した事跡があるが、 彼らはみな草を厚く敷いて坐ったのである。 (かつて金剛 コンゴウ のうへに坐し、盤石 バンジャク のうへに坐する蹤跡 ショウセキ あり、 かれらみな草をあつくしき...

あなたは坐禅をして何を図っているのか『第十二坐禅箴』12-2-1a

〔『正法眼蔵』原文〕    江西大寂 コウゼイダイジャク 禅師、ちなみに南嶽大慧禅師に参学するに、 密受心印よりこのかた、つねに坐禅す。  南嶽あるとき大寂のところにゆきてとふ、 「大徳、坐禅図箇什麼 ズコシモ 」。  この問、しづかに功夫参学すべし。 そのゆゑは、坐禅より向上にあるべき図 ヅ のあるか、坐禅より格外に図すべき道 ドウ のいまだしきか、すべて図すべからざるか。 当時坐禅せるに、いかなる図か現成すると問著 モンヂャク するか。 審細に功夫すべし。 〔『正法眼蔵』私訳〕 江西の大寂馬祖道一禅師が、縁あって南嶽大慧懐譲禅師に参じて学んだとき、仏心印 (仏の悟りの内容 ) を親しく厳しく正しく受けて (仏法の在り様、坐禅の在り様がツーツーになって) 以来、常に坐禅した。 (江西大寂禅師、ちなみに南嶽大慧禅師に参学するに、密受心印よりこのかた、つねに坐禅す。) 《この密は、隠密の密ではなく、親しく厳しく正しいという意味合いである。》 南嶽がある時馬祖の所に行って尋ねた、 「あなたは坐禅をして何を図っているのか」。 (南嶽あるとき大寂のところにゆきてとふ、「大徳、坐禅図箇什麼。」) この問いは、静かに工夫し深く学ばなければいけない。 (この問、しづかに功夫参究すべし。) と言うのは、坐禅よりもっと上にあるべき図 (様子) があるのか、坐禅より外に図るべき道 (在り様) がまだその時期でないのか、全く図ることがないのか。 (そのゆゑは、坐禅より向上にあるべき図のあるか、 坐禅より格外に図すべき道のいまだしきか、すべて図すべからざるか。) 当に坐禅している時に、どんな図 (様子) が現れているのかと問うたのか、詳細に工夫すべきである。 (当時坐禅せるに、いかなる図か現成すると問著するか。審細に功夫すべし。) 〔「坐禅図箇什麼」 (坐禅の図は箇の什麼なり) とは、箇の什麼 (この身心の今の様子) が坐禅の図 (様子) であるということである。〕 あなたは坐禅をして何を図っているのか『第十二坐禅箴』12-2-1b                         合掌 ンキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                               ↓               ↓       にほん...