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正3-6-2②『第三仏性』第六段その2②〔常は未転である〕〔聞書私訳〕

 

/「未転」ということについて、教家の説でも正見と邪見を分けている。この宗門でも正見と邪見があるのである。


/正見(正しい見方)とは、宗門の教説である。


/凡を転じて聖となる。《これは転じるので真無常の方であり、邪ではない》


/凡を転じないで聖となる。《上と同じで、無常の見である》


/凡を転じず聖とならない。これは、凡の方も正の方も転じるという言葉がないから、邪常の方と言えるが、既に転・未転をも凡・聖をも超越しているときは、正見の方に取るのである。


/疑って言う、「そもそも、凡・聖や転・未転を超越すると言っても、その証拠はどのようなことか」。


/答えて言う、「この非難はいかにも根拠があるように思われるが、超越とか脱落と言うからには、とやかく言うまでもない。また、亘カン古亘今(古今にわたる)などという言葉も、古と言う時は三世を共に古と使い、今と言う時は三世を今とも言う。また、古今がない所を、亘古亘今と言うとも心得るべきである。


また、仏界・衆生界の増減といって、宗門の大事として取り扱うが、仏と衆生をそれぞれ別なものとするとき、一方が増えれば一方が減る道理がなくても、ないわけではなかろうが、生仏一如(衆生と仏と一体)と脱落身心してしまえば、増減に惑わされることはないのである。この「転」の字もこれ程に心得るべきである。」と。


/邪見とは、宗門で捨てる考えである。


/凡であるものは常に凡であり、凡はいまだ聖と転じておらず、聖はいまだ凡と転じていない。/《これらは皆不転であって常と言うべきであり、邪見の未転である》


/「未転といふは、たとひ能断と変ずとも、所断と化すれども」(未転とは、たとえ能く断するものとなっても、たとえ断じられるものとなっても)と。能く断ずるのは仏性であり、断じられるのは有常である。そうであるのに、去来の跡かたに拘わらないから、未転と心得するのは真常である。《無常と心得るべきであり、真常は無常である》未転のありさまはこのようである。未転と言うからといって常と言うことだと心得るのは、邪の方である。


/この「能断」「所断」の言葉は意味がないように見える。そのわけは、始めに「常聖これ無常なり、常凡これ無常なり」という言葉があるときに、常聖、常凡と「常」の字はあるが「無常なり」「無常なり」と示して仏性ととるのであるから、仮に「能断」「所断」の言葉があっても、「たとひ」と許すだけである。必ず「変ず」とも、「化す」とも言わない。


そして「去来の蹤跡に拘わらず、故に常なり」と結ばれる。この「常」は、六祖の真常であるから「無常」と理解すべきである。「未転」とあるから、つねであると理解し「常」と説くのは、ますます仏法に遠い。「未転」の言葉は不会フエ(会の徹底としての不会:分からない)くらいに理解すべきである。


/「無常」は、仏見と邪見の二つがあるから、六祖は「吾が説く」という言葉をお使いなさる。これは仏見である。この段《『仏性の巻』第六段のことである》では二心である。「無常」を仏性の方に付け、「有常」を分別心の方に理解するのが正統な理解であるが、僻見ヘキケン(理に契わない邪見)の修行者が、「有常と無常を分けてはならない。ただ一仏性であると説くといい」などというのは、全く迷いである。


仏法の大綱を捨てないで、しばらく能所(主客)を断つことを休まれたようであるが、「去来の蹤跡にかかはれず」(去来の足跡に拘わらない)とある上は、「未転」は「無常」と理解するのである。《全く有常に言及がない、今有常とあるが真有常であり、仏の無常にあたる。》「去来の蹤跡にかかはれず、故に常なり」と結ばれる。この「常」は「真常」であり、「無常」であり、すなわち仏性である。


                      合掌


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