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正3-6-1④『第三仏性』第六段その1④〔無常は即ち仏性である。有常は即ち善悪など一切のものを分別する心である〕

 〔聞書私訳〕

/行昌は言う、「弟子(行昌)は昔、涅槃経を読みましたが、未だ常・無常の意味が解りません。和尚《六祖大鑑慧能禅師》に乞う、慈悲をもって簡略に私の為に説いてください」と。《この問いは言葉の通りであり、格別に変わった事はない》


/六祖は言う、「無常は即ち仏性である。有常は即ち善悪など一切のものを分別する心である」と。


/この言葉も特に考えるべき事はない。上に載せた仏性は常住の法であり、善悪の諸法を分別するのは無常転変の法と思うのを、常住を無常に取り換えた言葉と思われる。しかしこれは初めの段階の考えである。およそ無常にも正見と邪見があり、有常にも正見と邪見があるときに、この六祖が言われる「無常」を、世間の無常のように心得てはかいがない。仏性と心得る時は、山河大地・日月星辰・驢腮馬嘴ロサイバシ(ロバのえくぼや馬の口ばし)を見るのは、すべて仏性である。そうであれば、「無常」を心得ることもこれほどである。


『正法眼蔵第一現成公案』で、「風性常住無処不周」(風性は常住であり周からざる処無し)の事を麻浴山寶徹マヨクザンホウテツ禅師と僧とが問答した。これも風について、扇を使う使わないなどと言うだけでは、仏法の諦アキラめとは言い難い。「仏家の風は、大地の黄金なるを現成させ、長河の蘇酪を参熟せり」は、世間の風のように心得てはならない。この「無常」も前と同じである。結局、どの言葉もこのように心得られるから、必ずしもこの言葉だけを例として証拠に引くべきではないが、先ず一部を挙げるのである。


/行昌は言う、「和尚が説かれる所は非常に経文と違っています」と。この言葉はいかにももっともなことである。行昌は、経文の意味に惑っているから、六祖の言葉が経文と違うと言うのである。


/六祖は言う、「吾れは仏の心印(仏が悟られた真理)を伝える、どうして仏の経と違うことがあろうか」と。これも文の通り。


/行昌は言う、「経では仏性は常だと説いています。和尚は反対に無常だと言われ、善悪の諸法或いは菩提心はみな無常だと経にありますが、和尚は反対に常だと言われます。これは経典と違っていて、私をますます惑わせます」と。これもまた行昌が思っているところは言葉の通りである。


/六祖は言う、「涅槃経は、吾が昔、尼の無尽蔵が一編を読誦するのを聞いて、すぐに尼の為に講説したが、一字一義も経文に合わないことは無く、またお前にも違ったことを説いたことは一度も無い」と。これもまた文の通り。


/行昌は言う、「学人の見識と度量は浅く狭いので、和尚再び詳しく説き示してくださるようお願いします」と。また文の通り。


/六祖は言う、「お前は知っているかどうか、仏性が若し常なら、更に何の善悪の諸法を説こうか、または窮劫にも菩提心を発こす者は一人もいないだろう。だから私は無常と説く、正しくこれが仏が説く真常の言葉である。また、一切諸法が若し無常であれば、即ちあらゆるものはみな自性があり《この自性は劣った自性である》、まさに生死を受けるはずである。しかも、真常の性は行き渡らない所が有るだろう。だから私が常と説くのは、正しくこれが仏が説く真無常の意である。


凡夫や外道が邪常に執するから、諸々の二乗の人が常を無常と考え、共に八倒となるから、仏は、『涅槃了義教』の中で、その偏見を破り、しかも明らかに真常・真我・真浄を説くのである。汝は言葉に頼って義に背くのである」と。


                        合掌


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