スキップしてメイン コンテンツに移動

正3-4-4 ①第四段その4①〔仏性は空であるから無と言う〕

 〔『正法眼蔵』本文〕

五祖いはく、「仏性空故、所以言無」。

あきらかに道取す、空は無にあらず。

仏性空を道取するに、半斤ハンキンといはず、八両といはず、無と言取するなり。

空なるゆゑに空といはず、無なるゆゑに無といはず、仏性空なるゆゑに無といふ。

しかあれば、無の片々は空を道取する標榜なり、空は無を道取する力量なり。


〔抄私訳〕

・「五祖いはく、仏性空なる故に、所以ユエに無と言う」(五祖が言う、仏性は空であるから無と言う)とある。この言葉を一般の人が理解する様子は、仏性は虚ろなものであり、その姿は見えず、

空である。だから無と言われたと理解されるだろう。空と無は同じことなのである。


・しかし、これを釈されるのに、「仏性空を道取するに、半斤といはず、八両といは

ず、無と言取するなり」と言う。この空も無も、仏性の上の空であり無である。

決して我々が考える空・無ではない。この空と言われた言葉は、「半斤・八両と言う

のではない」とある。この空・無は、解脱の上の空・無である。結局、この空も

この無も、仏性の上の空・無であり、脱落の空無であると理解すべきである。


・「空なるゆゑに空といはず、無なるゆゑに無といはず」とある。

これは普通の衆生が考える空・無ではないことを、このように斥けられるのである。

「仏性空なるゆゑに無といふ」とあるのは、前に言ったように、仏性の上の空・無

であるから、このように示されるのである。


・「無の片々は空を道取する標榜ヒョウボウなり、空は無を道取する力量なり」(無の片々は空を言い表す標識であり、空は無を言い表わす力量である)とある。これは、無も際限が無く、空も際限が無いので、互いに標榜(しるしの立て札)となり力量となるとは、つまるところ、空と無と仏性は、一つであるという道理である。


〔聞書私訳〕

/「師いわく、仏性空なる故に、所以に無と言う」。この有無は、世間で言う有無で

ないことはすでに触れた。だから、空であれば無だと理解することは、決してあって

はならない。空は必ずしも無いことのみを言うのではない。障サワりがないことにも空と使う。また、辺際が無いことにも使う。砕空と外道が説くことは、物を砕いて

失えば無の字と同じである。


/この「仏性空故、所以言無」(仏性空なる故に、所以に無と言う)の八字を指して、「あきらかに道取す」と言うのである。


/「半斤といはず八両といはず」とは、「三界一心」(あらゆる世界は一心の現れである)であるから仏と言わず、衆生と言わず、というほどのことである。


/「空は無にあらず。ゆゑに仏性空を道取するに、半斤ハンキンといはず、八両といはず、無と道取するなり」(空は無ではない。だから仏性空を表現するのに、半斤と言わず、八両と言わず、無と表現するのである)と言う。八両と半斤は、同じ数量を言うのである。

空は無と同じではないから半斤とも八両とも言わないということである。


/「空なるゆゑに空といはず、無なるゆゑに無といはず」とは、

「仏性空故、所以言無」の故所以という三字を、世間で言うように理解してはならないから、「空といはず、無といはず」と説くのである。

物を置いて、「この故に」と言って、由来を立てない道理を説くのである。

仏性の由来を認めて、「仏性空なるゆゑに無といふ」とあるが、これは仏性が無い

ことを言うのではない。仏性をそのまま無と言うのである。独立の無である。


/「無の片々は空を道取する標榜ヒョウボウなり、空は無を道取する力量なり」(無の片々は空を言い表す標榜であり、空は無を言い表わす力量である)とは、尽十方界真実人体(全世界は如来の法身である)という道理で、鼻孔とも、眼晴とも、光明とも使うのである。

これがこの標榜や力量に相当するのである。



 〔『正法眼蔵』私訳〕

五祖が言う「仏性は空である、だから仏性は無と言う」と。(五祖いはく、「仏性空故、所以言無」。)


空は有無が相対する無ではない、と明らかに言う。(あきらかに道取す、空は無にあらず。)


「仏性空」を言い表わすのに、半斤と言わず、八両と言わず、無と言うのである。(仏性空を道取するに、半斤ハンキンといはず、八両といはず、無と言取するなり。)〔空と無は半斤と八両(二つは同量)である。〕


空であるから灰身滅智ケシンメッチ(身を灰にし智を滅すること)の空と言わず、無であるから有無が相対する無と言わず、仏性は空であるから無と言うのである。(空なるゆゑに空といはず、無なるゆゑに無といはず、仏性空なるゆゑに無といふ。)


そうであるから、無の片々は空を言い表わす標榜(しるしの立て札)であり、空は無を言い表す力量である。(しかあれば、無の片々は空を道取する標榜なり、空は無を道取する力量なり。)〔空と無と仏性とは一つである。〕


                          合掌


ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。合掌                       


     ↓               ↓

コメント

このブログの人気の投稿

尽十方界は沙門の眼である『第十五光明』15-1-1a

  明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。 〔『正法眼蔵』原文〕  大宋国湖南長沙 チョウシャ 招賢大師、上堂示衆云 ジシュウニイワク    尽十方界、是沙門眼。《尽十方界、是れ沙門の眼》    尽十方界、是沙門家常語。《尽十方界、是れ沙門の家常語》    尽十方界、是沙門全身。《尽十方界、是れ沙門の全身》    尽十方界、是自己光明。《尽十方界、是れ自己の光明》    尽十方界、在自己光明裏。《尽十方界、自己の光明裏に在り》    尽十方界、無一人不是自己。《尽十方界、一人として是れ自己にあらざる無し》  仏道の参学、かならず勤学 ゴンガク にすべし。 転疎転遠 テンソテンノン なるべからず。 これによりて光明を学得せる作家 ソカ 、まれなるものなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 大宋国湖南の長沙景岑招賢大師が、法座に上って大衆に示して言う、 (大宋国湖南長沙招賢大師、上堂示衆云) 尽十方界 (全世界) は、沙門 (修行僧) の眼 (私がなく見えるままの眼) である。 (尽十方界、是れ沙門の眼) 尽十方界は、沙門の日常の語である。 (尽十方界、是れ沙門の家常語) 尽十方界は、沙門の全身である。 (尽十方界、是れ沙門の全身) 尽十方界は、自己の光明である。 (尽十方界、是れ自己の光明) 尽十方界は、自己の光明の中にある。 (尽十方界、自己の光明裏に在り) 尽十方界は、一人として尽十方界が自己でないものはいない。 (尽十方界、一人として是れ自己にあらざる無し) 仏道の参学は、必ず熱心に光明を修行すべきである。 (仏道の参学、かならず勤学にすべし。) 光明と疎遠であってはならない。 (転疎転遠なるべからず。) 光明と疎遠であって光明を自己のものにできた 作家 (仏道に弟子を導くことができる優れた師家) は、希なものである。 (これによりて光明を学得せる作家、まれなるものなり。) 尽十方界は沙門の眼である『第十五光明』15-1-1b                    合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                                     ↓               ↓       にほんブログ村

人間の目の素晴らしい働き 番外編

  皆さんのご参考になるかもしれない動画に出会いました。こちらを何度もご覧になり、素晴らしい実感を味わってみてください。 動画: 正法眼蔵(人間の目の素晴らしい働き) 尚、ご参考までに以下文字起こしをしました。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・皆さんこんにちは、安穏寺チャンネルを ご覧いただきましてありがとうご ざいます。チャンネル名は毎回変わるかもしれませ んけれどもご容赦ください。今日はですね、我々の人間のこの目の働きを通してある、我々が気がつかないでいる素晴らしい力に ついて勉強してまいりたいと思います。  まず初めにですね、一度目を閉じてみて ください。で、ゆっくり開けます。 もう一度目を閉じます。で、目をゆっくり開け て ください。で、そこで最初に行われていること をよく観察してみてください。目というものは見る前にですね、写るという働きが先に あるんじゃないでしょうか。よくよく皆さん やってみてください。 目をまず閉じます。で、見ようとしてみてください。ぐーっと 今目を閉じてますから見えませんね。目を開けます、そうすると見るよりも先に写し出さ れるということが先にありませんか。この写し出される、写るという働きには私がありません。 自分が例えばキョロキョロあっちを 見ようとかですね、こっちを見ようとする ことは自分が自分で焦点を合わせようとしてますから、自分の意でそこに焦点を 合わせようとしてますですけれども、もう 一度目を閉じてください。目を閉じて ゆっくりと開けてみてください。見る前に写っている写し出されているということが がありませんか。 私たちの目という働き、目というものの力、働きはですね、そのこの我々の体の前にあることを、こうある角度で写し出す素晴らしい力 があります。目というレンズですね、皆さんのお持ちのカメラやスマートフォンや ムービーなどのレンズもですね、そのものをですねそのまま写し出す力があります。 写真 という言葉がありますが、真実を写すという、真実を写す本当の我々の素晴らしい働き、このマナコなん です。今のこの映像というものは今の皆さん の目がこう写し出すこの時しかないですね。この動画はもう過去のものでございますから、今私は別のところに行ってご飯とか 食べてるかもしれませんですが、今...

むしろ逆に悟りを借りるのかどうか 『第十大悟』10-4-2a

〔『正法眼蔵』原文〕  「還仮悟否 ゲンケゴヒ 《 還 カエ って悟を仮るや否や 》」。 この道をしづかに参究して、 胸襟 キョウキン にも換却すべし、 頂𩕳 チョウネイ にも換却すべし 。  近日大宋国禿子 トクス 等いはく、「悟道是本期 ゼホンゴ 《悟道是れ本期なり》 」。 かくのごとくいひていたづらに待悟す。 しかあれども、 仏祖の光明 にてらされざるがごとし。 たゞ真善知識に参取すべきを、懶惰 ランダ にして蹉過 サカ するなり。 古仏の出世にも度脱せざりぬべし。 〔『正法眼蔵』私訳〕   「 むしろ逆に悟りを借りるのかどうか 」。 この言葉を静かに親しく究め尽くして、 心の中のものとも取り換えなさい、 頭の中のものとも取り換えなさい 。 (「還仮悟否」。この道しづかに参究して、胸襟にも換却すべし、 頂𩕳 にも換却すべし。)   近頃、大宋国では、頭を剃って坊さんの格好をした連中が、 「仏道修行は道を悟ることが本来の目的だ」と言っている。 このように言って、無駄に悟りが来るのを待っている。 (近日大宋国禿子等いはく、悟道是れ本期なり。かくのごとくいひていたづらに待悟す。) そうであるけれども、 仏陀や祖師と同じような 自己の光明 に照らされないようなものである。 (しかあれども、仏祖の光明にてらされざるがごとし。) ただ真の善知識 (人を正しく導く師) について学ぶべきであるのに、 時間を無駄に過ごして 大道(自己の光明に照らされる在り様) を踏み間違えているのである。 (たゞ真善知識に参取すべきを、懶惰にして蹉過するなり。) たとえどんな仏の出生に出会っても、解脱しないであろう 。 (古仏の出世にも度脱せざりぬべし。) むしろ逆に悟りを借りるのかどうか 『第十大悟』10-4-2b                          合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                               ↓               ↓       にほんブログ村