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正3-5-2②『第三仏性』第五段その2②〔仏性は成仏よりのちに具わるものであると学ぶことが、正しく的を射ていることである〕

〔『正法眼蔵』本文〕

十聖三賢ジュッショウサンケンのあきらむるところにあらず。                   

衆生有仏性、衆生無仏性と道取する、この道理なり。                 

成仏以来に具足する法なりと参学する正的ショウテキなり。                 

かくのごとく学せざるは、仏法にあらざるべし。                   

かくのごとく学せずは、仏法あへて今日にいたるべからず。              

もしこの道理あきらめざるには、成仏をあきらめず、見聞せざるなり。         


〔抄私訳〕

・「十聖三賢のあきらむるところにあらず」とある。煩悩を断ち切り真理を証得している菩薩等が、どうして仏性の道理を明らかにしないことがあろうか。しかし、「十聖三賢」といって、順番に階級を上がっていくようでは、どんなにしてもこの仏性の道理を説くことはできないのである。


・「衆生有仏性、衆生無仏性と道取する、この道理なり」とある。このくだりは格別変わった事は無い。


・「成仏以来に具足する法なりと参学する正的なり」とある。繰り返し、成仏の前に仏性が具わっているという考え方を斥けられるのである。

〔聞書私訳〕

/「十聖三賢の明らむるところにあらず」と言う「十聖三賢」等は、修行に順次階級を設けて、等覚位(妙覚の一段階前の位)の菩薩はさらに妙覚位(菩薩の最高位である仏の無上の悟りの境地)を期待し、あちらとこちらに勝劣があるから妙覚位に及ばないのである。


例えば、国王や大臣は、素性は高貴で才能や学問が勝っていても仏法を知らず、賤しい民であっても出家求道して善知識に随って容易に仏法を知る、これほどのことである。だから、「十聖三賢の明らむるところにあらず」と言うのである。また、「十聖三賢」も、この仏性の道理を学ぶという上では、及ばないと言うべきではない。


〔『正法眼蔵』私訳〕    

仏性の道理は、修行段階の上位にある菩薩が明らかにできるものではない。(十聖三賢ジュッショウサンケンのあきらむるところにあらず。)                   


「衆生は有仏性、衆生は無仏性」と表現するのが、この道理である。(衆生有仏性、衆生無仏性と道取する、この道理なり。)                 


仏性は成仏よりのちに具わるものであると学ぶことが、正しく的マトを射ていることである。(成仏以来に具足する法なりと参学する正的ショウテキなり。)                 


このように学ばなければ、仏法ではない。(かくのごとく学せざるは、仏法にあらざるべし。)                  


このように学ばなければ、仏法はとても今日に至ることはなかっただろう。(かくのごとく学せずは、仏法あへて今日にいたるべからず。)              


もしこの道理を明らかにしなければ、成仏を明らかすることはできず、見聞したことにならないのである。(もしこの道理あきらめざるには、成仏をあきらめず、見聞せざるなり。)


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