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正3-5-1②『第三仏性』第五段その1②〔すでに仏であるのに、さらにどのような仏になろうというのか〕

 〔『正法眼蔵』本文〕

この「嶺南人無仏性」といふ、嶺南人は仏性なしといふにあらず、嶺南人は仏性ありといふにあらず、 嶺南人、無仏性となり。                        


「いかにしてか作仏せん」といふは、いかなる作仏をか期ゴするといふなり。



〔抄私訳〕

・「いかにしてか作仏せんといふは、いかなる作仏を期するといふなり」と言う。この作仏(成仏)の上で、さらにどのような仏になろうと言うのかということである。もっとも、この道理の上では、またどのような「作仏」もあるであろう。悉有(すべての存在)の作仏もあるであろう。有仏性の「作仏」もあるであろう。


〔聞書私訳〕

/「いかにしてか作仏せん」と言うからには、仏性は既に決まっている。作仏のことを言うのに、「いかなる作仏をか期する」とは、阿弥陀仏となろう、薬師仏となろうということではなく、「作仏」の姿は、「いかに」と説かれるのである。「無仏性」の言葉の時は、作仏は既に現われている。そうであるから、「いかなる作仏をか期する」と言うのである。いかなるも作仏であり、期待することではないからである。


/「嶺南人無仏性」という言葉を、仏性が無いと説くのではないと、説かれることは、第四段で五祖が言った「仏性は空であるから無と言う」の「無」と理解するのである。だから、「嶺南人は、無仏性なり」と説かれるのである。



 〔『正法眼蔵』私訳〕

この「嶺南人無仏性」とは、嶺南人は仏性が無いと言うのではなく、嶺南人は仏性が有ると言うのではなく、嶺南人は無仏性であるということである。(この「嶺南人無仏性」といふ、嶺南人は仏性なしといふにあらず、嶺南人は仏性ありといふにあらず、 嶺南人、無仏性となり。)                        


「どうして仏になろうとするのか」とは、すでに仏であるのに、さらにどのような仏になろうというのかと言うのである。

(「いかにしてか作仏せん」といふは、いかなる作仏をか期ゴするといふなり。)


*注:《 》内は御抄著者の補足。( )内は辞書的注釈。〈 〉内は独自注釈。〔 〕内は訳者の補足。


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