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正3-5-1①第五段その1①〔仏になることを求める〕

〔『正法眼蔵』本文〕

震旦シンタン第六祖曹谿山ソウケイザン大鑑禅師、そのかみ黄梅山オウバイサンに参ぜしはじめ、

五祖とふ、「なんぢいづれのところよりかきたれる」。    

六祖いはく、「嶺南人レイナンジンなり」。                

五祖いはく、「きたりてなにごとをかもとむる」。         

六祖いはく、「作仏をもとむ」。                 

五祖いはく、「嶺南人無仏性、いかにしてか作仏せん」。  

               

〔抄私訳〕

・この問答は、普通のように思われるが、祖師の問答が、ただ普通の問答である

はずがない。とりわけ、五祖と六祖の問答は、必ず問答が行われるだけのわけが

ある。つまるところ、この問答は仏法上の問答と理解すべきである。


その上、嶺南がどれほどの大国であろうかということは知り難く、

この「嶺南人無仏性」を理解することは、世間の考えでも理解し難いであろうが、

道元禅師は「この『嶺南人無仏性』といふ嶺南人は仏性なしといふにあらず、

嶺南人は仏性ありといふにあらず、嶺南人、無仏性となり」と釈されるのである。


これは、この「無」を世間で言う無と理解して、仏性の上で、仏性が無い或いは

有ると論じるのではなく、ただこの「嶺南人は無仏性」であるということである。

この「無」の言葉は、以前から久しく説かれてきており、今更疑うべきではない。


〔聞書私訳〕

/今、「嶺南人《この嶺南人は解脱した嶺南人である》無仏性」の言葉で仏法を説くことは、例えば、「一法僅かに通ずれば、万法共に通ず」と言う、これである。もっとも、文は自分が固執した考え方によって読まれると言う。確かに、理解の仕方は一つではない。世間の浅い言葉によって、仏法の深遠な言葉が表していることを学ぶべきである。


依報エホウ(環境)と正報ショウボウ身心) を一つずつ説いても、一方が残ることはないのである。仏と衆生は一つであるから、仏と説けば衆生も表れ、「嶺南人」と説けば、「無仏性」も表れるのである。


聞く所では、人には漸ゼンと頓トンの素質があって、漸の素質の人は、六度万行(六波羅蜜の一切の善行)の法を修行して菩薩の階級を経て成仏を現わし、頓の素質の人は、すぐに成仏を現わすという。この「作仏をもとむ」とは、直ちに仏になることを求めるということである。そうであるから、衆生と成仏は別のものであると考えていたことが昨日の夢の如しと説くのである。《本来の仏ということを知らないで衆生と仏とを両方に置いて、衆生が成仏すると説くことを、昨日の夢のようだと説くのである。真実ではないから。》


敗種《朽ちた種である》の二乗(声聞・縁覚)は、仏性無しと斥けられるが、最後までお捨てにならず、法華の時は、弾呵タンカ(方等時)淘汰トウタ(般若時)の調熟を経て、衆生の機(素質能力)を純一なる円教(『法華経』の唯有一乗法)に調えるのである。


およそ、衆生が仏法を聞く時には、得失があるであろう。得とは、善悪の法を差別して、なんとかして悪を廃し善に向かうほどの身になる、これが得である。まして仏性の有無を理解することは、成仏、「作仏」ということが、いかにも得ということであろう。失とは、「一切衆生、悉有は仏性なり」と聞いて、仏性でないものは何もないと言って、あらゆる悪を嫌わないのが失である。



〔『正法眼蔵』私訳〕

シナの六祖、曹谿山大鑑慧能ダイカンエノウ禅師が、その昔黄梅山の五祖大満弘忍禅師に初めて参じたとき、(震旦シンタン第六祖曹谿山ソウケイザン大鑑禅師、そのかみ黄梅山オウバイサンに参ぜしはじめ、)                     


五祖は問う、「汝はどこから来たのか」。
五祖とふ、「なんぢいづれのところよりかきたれる」。)


六祖は言う、「嶺南出身の者です」。(六祖いはく、「嶺南人レイナンジンなり」。)  


五祖は言う、「来て何を求めるのか」。(五祖いはく、「きたりてなにごとをかもとむる」。)                


六祖は言う、「仏になることを求めます」。(六祖いはく、「作仏をもとむ」。


五祖は言う、「嶺南人は無仏性であるのに、どうしてその上更に仏になろうとするのか」。(五祖いはく、「嶺南人無仏性、いかにしてか作仏せん」。)


*注:《 》内は御抄著者の補足。( )内は辞書的注釈。〈 〉内は独自注釈。〔 〕内は訳者の補足。


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