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正3-4-3②『第三仏性』第四段その3②〔仏性は七通八達しているからふさいではならない〕

 〔『正法眼蔵』本文〕

七通を逼塞ヒッソクすることなかれ、八達を模索モサクすることなかれ。

無仏性は一時の三昧ザンマイなりと修習することもあり。

仏性成仏のとき無仏性なるか、仏性発心ホッシンのとき無仏性なるかと問取すべし道取すべし。

露柱をしても問取せしむべし、露柱にも問取すべし、仏性をしても問取せしむべし。 


〔抄私訳〕

・「七通を逼塞ヒッソクすることなかれ、八達を模索モサクすることなかれ」仏性は七通八達しているから、仏性は塞がることもなく、仏性はここに来ているのだろうかと手探りする必要もないと。


これは何事かと突然出てきたように思われるが、ただ、「通達」を解釈される言葉である。つまり、この「無仏性」の上では、「七通」も塞フサがず、「八達」も模索してはならない。ただ、「無仏性」であるという意味合いである。そもそもこの草子では、この言葉のように、文の始めと終りの言葉を書き合わせて、理解しにくいことが多い。だから、ただ理の方を取り、無理に言葉を一つ一つ理解しようとしてはならない。十分に文を見て理解すべきである。


・「無仏性は一時の三昧なりと修習をすることもあり」無仏性は一時の三昧であると参学することもあると。「無仏性」の言葉は、正に尽十方界の道理なのである。


・「仏性成仏のとき無仏性なるか、仏性発心のとき無仏性なるかと問取すべし、道取すべし」(仏性が成仏する時が無仏性なのか、仏性が発心する時が無仏性なのかと、問うてみるがよい言ってみるがよい)と。


「仏性成仏」とは、理に具わっている仏性が修行して顕れる時、仏性が成仏すると理解してはならない。ただ、仏性の道理を指して、「仏性成仏」と言うのである。仏性と成仏は、全く時間の前後や空間の内外の論とは関係がないのである。「仏性発心のとき無仏性であるかと問うべき、道うべき」とある、「仏性発心」の言葉は理解しにくいけれども、つまる所、仏性によって発心するとも、仏性が発心するとも説くからには、この言葉にいまさら迷ってはならない。


・「露柱をしても問取せしむべし、露柱にも問取すべし、仏性をしても問取せしむべし」露出している柱にも問わせてみるといい。露出している柱にも問うてみるといい。仏性にも問わせてみるといい)とある。


「露柱」とは、露出している柱で垣や壁にもつかず、ただ柱一本真っ直ぐに立っているのを言う。これはすなわち、ものに関わらない様子である。ただ、「露柱」も仏性であり、燈籠も仏性であるという意味合いである。誰か人がいて普通に問うこともあろう。仏性の道理が問うとも言われ、「露柱」とも言うのである。ただ結局、落着する意味合いは、仏性は仏性と問い、「露柱」は露柱と言い、問うは問うと言い、言うは言うと問う道理である。


〔聞書私訳〕

/「七通を逼塞ヒッソクすることなかれ、八達を模索することなかれ」とは、この「無仏性」の無が「七通」してふさがることもなく、「八達」を探り求めることもなく「通達」するのである。七とか八の数は不必要である。


/「成仏より後」と言い、また「同参」という言葉は、同じ意である。総じて前・後・同の字は、みな普段の見方とは変わるべきである。相対する有無を離れた有無というくらいに理解すべきである。「無仏性」は「無仏性」の上で明らかにすべきである。


/「露柱をしても問取せしむべし、露柱にも問取すべし、仏性をしても問取せしむべし」露出している柱にも問わせてみるがよい、露出している柱にも問うてみるがよい。仏性にも問わせてみるがよい)と言う。


この問いは、はっきりしないことを他に向かって問うのではない。仏性に仏性のことを仏性が問うというのである。



 〔『正法眼蔵』私訳〕

仏性は「七通八達」しているから、仏性を塞いではならない、仏性はここに来ているのだろうかと手探りしてならない。(七通を逼塞ヒッソクすることなかれ、八達を模索モサクすることなかれ。)


無仏性は一時の三昧〈その時の一境と一体になりきること〉であると修行し身につけることもある。(無仏性は一時の三昧ザンマイなりと修習することもあり。)〔如何なる一時も仏性三昧である。〕


仏性が成仏する時に無仏性なのか、仏性が発心する時が無仏性なのかと、問うてみるといい言ってみるといい。(仏性成仏のとき無仏性なるか、仏性発心ホッシンのとき無仏性なるかと問取すべし道取すべし。)


露柱(露出している柱)にも問わせてみるといい、露柱にも問うてみるといい、仏性にも問わせてみるといい。(露柱をしても問取せしむべし、露柱にも問取すべし、仏性をしても問取せしむべし。) 〔露柱も仏性であり、燈籠も仏性である。仏性に仏性のことを問わせてみるといい。〕


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