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正3-4-1②第四段その1②〔お前は何ガという姓だな、仏性という姓だな〕

 〔『正法眼蔵』本文〕

祖、其ソの法器なるを識りて、侍者ジシャたらしめて、後に正法眼蔵を付す。

黄梅の東山に居して、大いに玄風ゲンプウを振フルふ。

しかあればすなわち祖師の道取を参究するに、「四祖いはく汝何姓ガショウ」はその宗旨あり。

むかしは何国人ガコクジンの人あり、何姓ガショウの姓セイあり。なんぢは何姓と為説するなり。

たとへば吾亦如是ゴヤクニョゼ、汝亦如是ニョヤクニョゼと道取するがごとし。



〔抄私訳〕

・四祖と五祖の問答の段は、この文で見る通りである。しかし、「祖曰く汝無仏性」という言葉は、浅い教えに執着している人を動揺させ疑いを生じさせてしまうだろう。そのわけは、「一切衆生、悉有は仏性なり」であり、仏性を具えていない衆生はないからである。だから、この「汝無仏性」の言葉はいかにも不審である。


つまるところ、この文のように、見事に世の常と同じように、四祖と五祖が問答されたと理解するなら、すべて僻見(偏った物の見方)である。問いも答えもそれぞれ仏性の意を表している言葉と理解すべきである。それについての道元禅師のご解釈は明瞭である。


・まず、四祖が五祖に「汝何姓ニョガショウ」と言ったのは、風情なく「汝は何イカなる姓か」と問いただされたように思われるが、そうではない。必ずしも仏法ではなくても、世間でも、「何国人ガコクジン」という人や「何姓ガショウ」という姓もある。だから、この「何」を疑問の言葉と理解すべきではない。


その上、「汝何姓」の言葉は「たとへば吾亦如是、汝亦如是ゴヤクニョゼニョヤクニョゼ吾もまたかくの如し〈仏性〉、汝もまたかくの如し)と道取するが如し」とある。四祖が五祖に姓を問うたのではなく「汝も仏性だ」と説いたことは、いよいよ疑うべきではないのである。


〔聞書私訳〕

/汝と言うからといって、童子である五祖一人に言って、自(四祖)と他(童子)を分けて、童子を汝と四祖が言われたれたのではない。童子を指す汝ではなく、誰と限定するのではない道理である。「吾亦如是汝亦如是」というほどの意味である。これは、ねんごろな証(悟り)を得る道理と合致し、汝と呼ばれる誰もが仏性の汝であると理解すべきである。


/「何ガ」の字は、辺際が無い意である。「何なる姓か」と疑って尋ねたのではない。「何国人ガコクジン」という人もいて、「何国ガコク」という国もあり、「何姓ガショウ」という姓もあったのである。このように「何ガ」であり、我々が世間で思っているような、疑問の「何イカなる」ではない。「何ガ」は仏性の意味合いなのである。



〔『正法眼蔵』私訳〕

四祖はこれによって、その童子が法を伝えるべきすぐれた器量を具えた者であると知り、侍者として、後に正法眼蔵〈釈尊以来代々伝えられてきた仏法の奥義〉を付託した。(祖、其ソの法器なるを識りて、侍者ジシャたらしめて、後に正法眼蔵を付す。)


その侍者は五祖大満禅師となり、黄梅の東山に住して、大いに奥深い宗風を興隆した。(黄梅の東山に居して、大いに玄風ゲンプウを振フルふ。)


そのようであるから、祖師の言葉を参究すると、「四祖曰く汝何姓」には、深い意味がある。(しかあればすなわち祖師の道取を参究するに、「四祖いはく汝何姓ガショウ」はその宗旨あり。)


昔はあなたはどこの国の人で姓名は何かと問われて、何国人ガコクジンと答えた人がおり、何姓ガショウという姓セイがあった。(むかしは何国人ガコクジンの人あり、何姓ガショウの姓セイあり。)


四祖は、「お前は何ガという姓だな、仏性という姓だな」と五祖に自己の真実を説いてやっているのである。(なんぢは何姓と為説するなり。)


たとえば、六祖が弟子の南嶽ナンガクに「吾もまた是カクの如し〈仏性〉、汝もまた是の如し〈仏性〉」と言うようなものである。(たとへば吾亦如是ゴヤクニョゼ、汝亦如是ニョヤクニョゼと道取するがごとし。)


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