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正3-4-1①『第三仏性』第四段その1①〔何という姓か?仏性という姓です。お前に仏性など無い!〕

 〔『正法眼蔵』本文〕

五祖大満禅師ダイマン ゼンジは、蘄州黄梅キシュウ オウバイの人なり。父無くして生る、童児にして道ドウを得たり。乃ち栽松道者サイショウ ドウシャなり。

初め蘄州キシュウの西山に在りて松を栽えしに、四祖の出遊シュツユウに遇ふ。

道者に告ぐ、「吾れ汝に伝法デンポウせんと欲オモふに、汝已スデに年邁ぎたり。若し汝が再来を待た、吾れ尚汝を遅つべし。」

師、諾ダクす。遂に周氏家の女ムスメに往きて托生タクショウす。

チナみに濁港ジョクコウの中に抛つ。神物護持ジンモツ ゴジして、七日損せず。因みに収りて養へり。

七歳に至るまで童子たり。黄梅路上に於て、四祖大医禅師ダイイ ゼンジに逢ふ。

祖、師を見るに、是れ小児なりと雖イエドも骨相奇秀コッソウ キシュウ、常の童ワラベに異なり。

祖、見て問うて曰く、「汝何姓ニョガショウ」。《汝何イカなる姓セイぞ》

師、答へて曰く、「姓即有ショウソクウ、不是常姓フゼジョウショウ」。姓は即ち有り、是れ常の姓にあらず)」。

祖、曰く、「是何姓ゼガショウ」。《是れ何イカなる姓ぞ》

師、答へて曰く、「是仏性」。《是れ仏性》

祖、曰く、「汝無仏性」。《汝に仏性無し》

師、答へて曰く、「仏性空故、所以言無」。《仏性空なる故に、所以ユヘに無と言ふ》


〔『正法眼蔵』私訳〕

五祖大満禅師は蘄州黄梅県の人である。父を持たずに生まれ、童子のうちに仏道を悟った。これが栽松道者の生まれ変わりである。(五祖大満禅師は、蘄州黄梅の人なり。父無くして生る、童児にして道を得たり。乃ち栽松道者なり。)


蘄州の西山に住んで松を植えていた時、四祖(大医道信)の行脚アンギャに出会った。(初め蘄州の西山に在りて松を栽えしに、四祖の出遊に遇ふ。)


四祖が道者に言った、「私はお前に法を伝えようと思うが、お前はもう年を取り過ぎている。もしお前が生まれ変わって来るならば、その時まで私はお前を待っていよう」と。(道者に告ぐ、「吾れ汝に伝法せんと欲ふに、汝已に年邁ぎたり。若し汝が再来を待た、吾れ尚汝を遅つべし。」)


道者はそれを承諾した。そのまま周氏という家の娘のところに行ってその腹を借りて生まれた。(師、諾す。遂に周氏家の女に往きて托生す。)


因みに小運河の中に捨てられたが、神的なものが護って七日間無事であった。そこで、母は子を拾い上げて養った。(因みに濁港の中に抛つ。神物護持して、七日損せず。因みに収りて養へり。)


七歳になるまで童子(仏門に入らない普通の小児であったが、黄梅山の路上で四祖大医禅師に会ったのである。(七歳に至るまで童子たり。黄梅路上に於て、四祖大医禅師に逢ふ。)


四祖がその童子(五祖)を見ると、童子ではあるが、人相風格が際立って秀でており、普通の童子とは異なっていた。(祖、師を見るに、是れ小児なりと雖イエドも骨相奇秀、常の童に異なり。)


四祖はそれを見て尋ねた、「お前は何という姓か」。(祖、見て問うて曰く、「汝何姓」。《汝何なる姓ぞ》)


五祖が答えて言った、「姓は有りますが、普通の姓ではありません」。(師、答へて曰く、「姓即有、不是常姓」。姓は即ち有り、是れ常の姓にあらず)」。)


四祖が言った、「それは何という姓か」。(祖、曰く、「是何姓」。《是れ何なる姓ぞ》)


五祖が答えて言った、「仏性という姓です」。(師、答へて曰く、「是仏性」。《是れ仏性》)


四祖が言った、「お前に仏性など無い」。(祖、曰く、「汝無仏性」。《汝に仏性無し》)


五祖が答えて言った、「仏性は空であるから、無とおっしゃるのですね」。(師、答へて曰く、「仏性空故、所以言無」。《仏性空なる故に、所以に無と言ふ》)


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