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正3-2-1③『仏性』第二段その1③〔あの説くこと、行じること、証明すること、忘れることなども、そっくりそのまま仏性が現前する時節の因縁である〕

 〔『正法眼蔵』本文〕

かの説 行・ 証・ 忘・ 錯・ 不錯等も、しかしながら時節の因縁なり。

 時節の因縁を観ずるには、時節の因縁をもて観ずるなり。

払子ホッス・ 拄杖シュジョウ等をもて相観ソウカンするなり。

さらに有漏智ウロチ ・無漏智ムロチ・ 本覚ホンガク・ 始覚シカク・ 無覚ムガク・ 正覚ショウガク等の智をもちゐるには観ぜられざるなり。


〔抄私訳〕

・「かの説 行・ 証・ 忘・ 錯・ 不錯等も」(あの説くこと、行じること、証明すること、忘れること、錯まること、錯まらないことなども)皆仏性だとこれを説く。だから、「しかしながら時節の因縁なり」(そっくりそのまま時節の因縁である)と言うのは、時節と仏性は一つであるからである。


・「時節の因縁を観ずるには、時節の因縁をもて観ずるなり」とは、仏性を観ずるには仏性によって観ずるのである、というほどの言葉である。


・「払子ホッス・ 拄杖シュジョウ等をもて相観ソウカンするなり」とは、仏祖の払子・拄杖の様相を観じるという意味であり、「時節の因縁を観ずるには、時節の因縁をもて観ずるなり」というほどの意味である。ただ、一般に言う、「有漏智無漏智 本覚・ 始覚・ 無覚正覚等の智」によっては観ずることができないのである。


〔聞書私訳〕

/「有漏無漏ウロムロ」というのも、漏は煩悩である。声聞の無漏(漏れ出す不浄なものが尽きていること)とは、三界(衆生が輪廻する欲界・色界・無色界の三種の迷いの世界)の煩悩を断じるだけであり、仏法(円教)に及ばず、通教(般若経などの教え)別教(菩薩に対する教え)にも猶及ばない。


/「初地初住証道同円、有教無人」(別教の初地と円教の初住とは同じ円の理を証す、別教は初地に達すると円教の悟りが開け、悉く円教の人となるから、教が有って人が無いのである)とは、別教は初地より教が有って人が無いのである。



〔『正法眼蔵』私訳〕

あの説くこと、行じること、証明すること、忘れること、錯ること、錯らないことなども、そっくりそのまま仏性が現前する時節の因縁である。(かの説 行・ 証・ 忘・ 錯・ 不錯等も、しかしながら時節の因縁なり。)


時節の因縁を観じるには、時節の因縁によって観じるのである。(時節の因縁を観ずるには、時節の因縁をもて観ずるなり。)


仏祖の払子(導師の法具)・拄杖(導師の杖)などによって時節の因縁の様相を観じるのである。(払子ホッス・ 拄杖シュジョウ等をもて相観ソウカンするなり。)


有漏智(煩悩の智慧)無漏智(煩悩のなくなった智慧) 本覚(本来具わっている仏性) 始覚(修行による始めての覚り)無覚(一切の思慮分別を離れた心境)正覚(仏の悟り)などの概念理解を用いるようでは、決して観じられないのである。(さらに有漏智ウロチ ・無漏智ムロチ・ 本覚ホンガク・ 始覚シカク・ 無覚ムガク・ 正覚ショウガク等の智をもちゐるには観ぜられざるなり。)


                            合掌


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