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正3-2-1⑥『仏性』第二段その1⑥〔あの説くこと、実践すること、実証すること、忘れること、錯まること、錯まらないことなども、すべて時節の因縁である〕

〔抄私訳〕

・「かの説 行・ 証・ 忘・ 錯・ 不錯等も、しかしながら時節の因縁なり」(あの説くこと、実践すること、実証すること、忘れること、錯まること、錯まらないことなども、すべて時節の因縁である)とある。


そもそも「仏性の義を知ろうと思えば」の「知」は、誰の所作であるのか。前の第一段で、「悉有は仏性なり」の意義を説くとして、悉有(あらゆる存在)の一部分を衆生とも言い、仏性とも言う。そうであれば、誰がいて、今知ろうと思うのであろうか。ただ時節の因縁だけである。時節とは仏性である。


〔ここまでの文が経豪キョウゴウ和尚の「抄」です。次段からの/印の文が詮慧センネ和尚の提唱部分で、経豪和尚がいわゆる聞書した内容と判ぜられます。これらの師説を受けて、

前文で、経豪和尚は「抄」文を著したわけです。「聞書」には、詮慧和尚が元天台学僧であった

ことから、天台教学を批判しつつ、永平開山の仏法を宣揚している箇所が頻出しますが、

「抄」になるとそういう所は影をひそめ、もっぱら師説を踏まえて『正法眼蔵』そのものの宗旨を解明することに集中していることが文面から伺われます。〕 


〔聞書私訳〕

/今禅宗と名乗る輩は、もっぱら我々の宗(根本の教え)を謗ソしるようなものである。経文や仏の説いた教えを、ほかならぬこの教えを対機説法(相手の精神的能力や性質などに応じて説法すること)だとして用いない。我々の宗は言語を離れているから、「達磨西来ダルマセイライ・不立文字フリュウモンジ(達磨は西から来て禅宗を伝えた・その教えは文字によらない)と言って文字を用いないのだ理解する。


「直指人心・見性成仏」(人の心を直接指す・仏に成る本性を見る)と言うからといって、ただ公案(参究する課題)を額に掛けて(公案に心を常に向けて)おれば仏性は現前するだろうと、教えるときには、この「時節若し至れば仏性現前す」という言葉も世間の理解と同じであり、まったく用いることはできない。


前代の祖師方の、十五年或いは二三十年の修行の労苦は非常に大きいけれども、ただこの行の節操(かたく守ってかえないこと)を表わすとき、一句或いは一言で明らかにするのは、日頃の修行の労苦によるのである。


悟道の後、十方から来た僧に逢えば、一句を言い一喝カツを与える。また互いに悟道の人になったなら、通じる路があるために、或いはこぶしをあげ一指を高くあげ、地を打って輪相《円相のこと》を描き、払子ホッスを落とし、柱杖シュジョウを投げる。しかし、これらの本当の意味を知らない、どのように言うことができようか。言葉がないことは自然に明らかになるだろうと考えて、公案を額に掛けておれとも教える。


霊雲レイウンが桃の花を見て、香厳キョウゲンが竹の響きを聞いて悟道したのも、多年の修行の労苦が熟して悟道したのだろうが、その時、桃の花を見、竹の響きを聞いたから、このように言い伝えられただけである。後世の修行者が、これを先例として、いたずらに桃の花を見、竹の響きを聞くとしたら、ただ歩みを北にして南の越国に向かうようなものである。笑うべきことである。


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